●『緑のさる』(山下澄人)。最初の方は、どんな感じなのだろうと様子見というか足下を探るように、そろりそろりと読み始め、中盤くらいになると調子が掴めた感じでどんどん面白くなる。とはいえ、山下さんのつくったFICTIONの舞台をいくつか観ているということもあって、6章までであるならば、その面白さも、まあ想定の範囲内と言って言えないことはない。つまり、ああいう舞台をつくれる人なら、こういう小説が書けるだろうという納得の圏内にあるとも言える。しかし、最後の二つの章にはびっくりした。こんな小説があるのか、というか、こんな風に書けるのか、というか、小説によってこんなところへ行けるのか、というか。
いや、6章まででも充分に、というか相当に魅力的な小説なのだが、7章と8章では完全に突き抜けて行ってしまう。こちらの予想など軽く飛びえたところへ飛躍する。最後の二つの章を読みながら、何度も何度も、(実際には声にはならない)「えーっ」という感嘆の声=息が漏れることになった。とにかく「えーっ」「えーっ」「えーっ」「えーっ」という連続で、特に、最後の章の後半部分など、一ページに二、三度くらい「えーっ」となる。一読した段階ではこの小説の感想というか印象としては「えーっ」しか出てこない。とにかく今日はこの驚きを記しておきたい。
●6章までの面白さは、どんなジャンルであれ面白いことをやっている人ならば別のジャンルでも面白いことができる、ということだとも言える。つまり面白い作品とは面白い人がつくるものだ、というような事だ。しかしその先の二つの章は、おそらく「小説を書く」という行為を経ることであらたに山下さんのなかから掴み出さされた(あるいは、つくりだされた)何かで、それはだから「小説」というものの何か核心にきっと触れていて、そしてそれこそまさに「小説の自由」っていうことなのではないかと思わされる。
●自由というのは要するに、「人が想像できないことを想像する」ということで、それが技術と違うのは、技術はある技術体系があって、その延長として、そこから一段上、二段上のステージを実現させるということだけど、自由というのは、そのような技術体系とは別のところでも、何かしらの行為をいきなり成立させることが出来るということを示すことだと思う。