2024-08-25

⚫︎「月刊アートコレクターズ」9月号で、永瀬恭一さんが個展「bilocation/dislocation」についてのレビューを書いてくださっています。

このレビューで永瀬さんは、批判的な視点として、柄谷行人による吉本隆明批判を引用している。なるほど、と。確かにそれはそうなんだよなと思う。

永瀬さんが引用した部分で柄谷は「体系」という言い方をしているが、「文脈」と言った方がわかりやすいと思う。たとえば柄谷行人は、欧米圏での哲学や思想の動向をある程度把握し、その文脈を意識した上で仕事をしている。柄谷はしばしば、「正当なアカデミシャン」から、思想家の解釈や概念装置の用い方が正確ではないという批判を受けるが、そのような批判が成り立つのは、問題にしている思想家や概念装置を(つまり、問題意識を)「正当なアカデミシャン」たちともある程度共有しているからだ。共通部分があるから「違い」の指摘が成り立つ。柄谷ならば、自分はたんに文脈に従うのではなく、文脈を前提にしつつ、それを根本的に書き換えようとする仕事をしているのだ、というだろうか。そのような共有された基盤にのっているからこそ、その仕事は晩年に国際的な大きな賞にも繋がった。

大江健三郎ノーベル文学賞にしてもそうだろう。彼の小説は、英訳や仏訳がなされているが、それだけで世界的に読まれるわけではない。ガルシア=マルケスやバルガス・リョサなどと同系列の、非欧米圏の作家で、リアルな(しばしば政治的な)現実と神話的世界を直結させた世界を創造するような長大な小説を書く一群の作家たちという、世界的な文学の潮流(文脈)があり、その中でも特に優れた小説を書いているという評価があるからこそ、受賞がある。要するに、ある共有された文脈の中での特異性が評価される。

対して吉本隆明(の、特に後期の仕事)は、そもそも問題意識や概念装置の組み方からして「独自」であり過ぎて、それは他の誰とも共有されていない。共有された土台を持たない「独自研究」であり過ぎる。「吉本の熱心な読者」であれば、彼の独自の問題意識や概念装置を理解し、共有しているかもしれないが、それはもう一部の特殊集団にのみ開かれている「教え」みたいな感じになってしまう。孤高の存在といえばかっこいいが、結果として閉じたものになりやすい。実際、吉本の(特に後期の)仕事を海外に向けて紹介しようとすると、どのような文脈を立ててそれをすればいいのか途方に暮れるだろう。ゆえに吉本はドメスティックな巨匠にとどまる。

で、現代の「美術の世界(アート界隈)」において、ぼくにそのような「吉本的性質(傾向)」があるというのは、その通りだろうと思う。「お前、プロレスのリングに登ってねえだろ、リングの上で勝負しろよ」「いやいや、そもそもその《リングが前提》なのがおかしいって言ってんだよ」みたいなマイク合戦が、そこにはあり得るだろう。

ただ、柄谷は、「全く理解できない」「体系を受け入れる気が全くない」と書くが、後者は事実だとしても、前者は嘘だろう。理解しているからこそ、その体系(その前提、その問題意識)について、自分はそれを受け入れるつもりはまったくない、と言える。ここで柄谷は、『マス・イメージ論』はまったく面白くないし、それはそもそも問題意識が間違っているからだ、と言っているように読める。「理解できない」ではなく「面白くない」「間違っている」と言いたいのだ。つまり、読めば理解はできる。

(柄谷は本当は、「自分はこれ受け入れるつもりがない」と言いたいのではなく、「これを受け入れるのはドメスティックな読者だけだ」と言いたいのだと思う。そこには、これを面白がって誉めそやしているような奴らが吉本をドメスティックな場所に閉じ込めているのだ、という怒りもあるのではないか。)

ぼくもまた『マス・イメージ論』はまったく面白くないと思う。だが、それに続く長大な『ハイ・イメージ論』は、今もなお新鮮さを失わないとても魅力的な仕事だと思って読み続けている。ただし、『ハイ・イメージ論』は『マス・イメージ論』にもさらに増して、独自の問題設定、独自の概念装置、独自の用語、独自の言い回し、独自の図解、が炸裂していて、解読困難な呪文のようですらある。柄谷の本が、論理の構成は複雑だとしても一文一文は明解なのでスラスラ読めるのに対して(スラスラ読めてしまうことが罠であるように思うが)、吉本の文は「おっさん一体何が言いたいんだよ」と文句を言いながら頭を抱えつつ読むしかない。

言いたいことは二つ。(1)文脈が共有されていなくても(「体系」が受け入れられていなくても)、面白いものは面白いとわかるはず。そこは信じたい。ただし、(2)「それでいいのだ」と思っているわけではない。実際、文脈がきちんと整えられていないものを、人は驚くほど、観てくれないし、読んでくれないし、言及してもくれない(ぼくは吉本のような巨人ではないのでなおさらだ)。これは、まがりなりにも30年以上活動してきて嫌というほど身に染みている。面白いものを提示できればそれで良い、というわけにはいかない。それだと「自分が活動できる最低限のスペースを開く」ことさえ困難になる。ただし、(2)の側面にかんして明確な答えや戦略があるわけではない。正直、どうすれば良いかよくわからない、手探り状態でしかない。

そもそも、柄谷や大江の時代にはあったのかもしれない「共有された文脈」のようなものが、現在もなお確固としてあるとは限らない(「文脈」とはそもそも、たんに「人脈」だったりするのだが)。その部分が既に崩壊しているということこそが重要な問題であると思われる。小さな群れはあってもユニバーサルな文脈はもはやない(「文脈」が消えて「人脈=政治・権力」だけが残っているのかもしれないが)。しかし、だからこそ尚更、自分が作品を発表するときに、その都度、そこに「提示されているもの(=作品)」が、どのような背景の中でそのようになっているのかという、その必然性について(「一見さん」を前提とした)説明・表明がより一層必要になると考えている。制作することとそのもの(の、生々しい局面)とはまた別の局面として「(様々なレベルで)語るにおちる」ようなことを積極的にやらざるを得ないし、それはやっていくつもりだ。

(とはいえ、「説明」すると、受け取る側がその説明に必要以上にとらわれてしまったりもするので、それはそれで問題だ。必要なのは、入り口とか接点とかを示唆するということで、それでも接点が見つからなければご縁がないということで仕方がないが、中に入れたと思ったら各自そこで自由に動いて欲しいのだが。)

いぬのせなか座とDr.Holiday Laboratoryの協力があったからこそ実現可能だったことだが、連続講座と展覧会と本の出版とを連動して行ったのもまた、その三つのことが相互に補強しあい説明し合うような関係になることを期待してのことでもある。ただそれはトゥーマッチでもあり得て、三つ全部をみていないと何か言いづらいという形でハードルを上げてしまったという側面もあるのかもしれない(基本的にはそれぞれ単独で自律しているはずだし、いくらでも断片的に適当なことを言ってもいいはずだが)。この「偽日記」も、可能な限り明確に説明・表明するという実践の一つのつもりではある。ただそれが「日記」という形式によって「内輪感」のようなものを出しているという側面もあるのかもしれない(日記は、説明であることもあるが、作品そのものであることもある)。狙いと逆の効果になっていることもあるのだろう。いずれにしても明確な答えはないので、今後も色々考えながらやっていく。

⚫︎明らかな誤読に基づくものや、悪意があるとしか思えない曲解については、いやいや、それは違うでしょと反論する必要があるが、そうでない限り、あらゆる論評、あらゆる感想は、基本的にすべてありがたいです。自分の作品について自分で説明するだけではあまりに虚しいので。