●どうでもいい話。いつも気になるのだが、割とよく使われていると思うのだけど「賞を獲る」という日本語は適当なのだろうか。
自分から応募するコンペみたいのは別として、例えばノーベル賞というのは、自分から「わたしを候補にしてください」と手を挙げるわけではなく、誰かが勝手に候補を挙げ、誰かが勝手に選ぶわけだから、行為の主体はあくまで賞を与える方で、だから「賞を受ける(受賞する)」という受動態になるのではないだろうか。そもそも賞とは、能動的に獲りにゆくものでなく受動的に受けるものだからこそ、そこにある客観性が保証されるのではないか。
オリンピックみたいに、共有されたルールを人工的につくり、「勝つ」ことを目的に一斉にスタート地点に立って、よーい、ドン、で競争するのならば、「金メダルを獲る」でもいいかもしれないけど(正確には「一位を獲る」ことによって「金メダルを受ける」わけで、メダルは「権威」あるいは「オリンピックの理念」から「与えられる」ものだろう)、賞というのは目的ではなく、ある行為や活動の成果や結果に対する社会的な評価(権威からの評価)として与えられるわけだから、それを「獲る」というのはおかしいのではないか。
なかには、ノーベル賞を目標にして研究者になる人もいるかもしれなくて、そういう人の主観的感情としては「獲る」なのかもしれないけど、だとしてもそれはその人のこころの満足であって、客観的にみれば「受ける」というべきものではないかと思う。
(スポーツは、明確にルールがあって、その上で「勝利」することを目的にして行われるわけだけど、学問や芸術を含めた、社会的な活動一般というのは、必ずしもそのようなものではないのではないか。ルールや評価軸そのものの更新や変革、創造が行為そのもののなかに含まれているし――ゆえにメタレベルとオブジェクトレベルは常に混同される――だからそれは、スポーツマンシップにのっとった同一平面上での正々堂々とした戦いだけではなく、多数のルール間、多数の評価軸間の抗争――メタ抗争――でもある。そして、必ずしも「勝ち」が目的とされるわけでもない。ある行為Xとその結果が、文脈Aでは「勝ち」であるが、文脈Bでは「負け」であり、文脈Cではその行為はそもそも「行為」として認知されない、というようなことが起り、そして、文脈ABCのそれぞれもまた勢力争いをしている、という感じ。その時、文脈Aが勢力拡大すれば、行為Xは賞を得るかもしれないが、文脈Cの勢力が拡大すれば、Xという行為そのものが存在しないことにされる。ルール≒文脈はむしろ事後的に付与される。だから、行為Xの受賞は、文脈Aの勢力拡大に対しお墨付きを与えることでその傾向を強化する方向で権威が状況に介入した、ということを意味する。行為Xの受賞は、行為Xが文脈Aのなかでお墨付きを得ることを通して、文脈Aが権威によるお墨付きを得るということだ――メタレベルのメタレベル。だが、文脈Aは、権威によるお墨付きで利を得るとしても、権威もまた絶対的な地位を保証されたものではなく、その後の一層の文脈Aの拡大によって、自らの信用性を維持することが出来るという意味で、相互作用的――相互強化的――である。つまり、メタレベルのメタレベルは存在せず、権威もまた、メタ抗争の比較的強力なプレイヤーに過ぎない。とはいえ、権威が権威であろうとすれば、それはあたかもメタレベルのメタレベルで「あるかのように」振る舞わなければならないだろう。すくなくとも、メタレベルのメタレベルであろうとする理念とともになければ意味がない。そうでなければ賞はステマと同じか、業界内の共済的な利益配分機構になってしまう。最も生臭い利害の絡む政治の真っただ中で、脱政治的――あえて「普遍的」と言う言葉を使ってもいいかもしれない――であろうとしなければならない。そのためにも、賞は、個別の利害をもつ行為Xの行為者が「獲る」ものではなく、メタ・メタ文脈――大他者――である権威から「与えられる」という体でなくてはならないのではないか。そのような――普遍性という――「虚構」を維持するのがもう「無理」だというなら、「賞」になど意味がなくなってしまい、広告かレコメンドか共済システム――追記・あるいは投資――と変わらなくなってしまうと思う。それを一概に「悪い」とは言えないが。)
(余談だが、この時、行為Xに、文脈ABCや権威とは切り離された、自律した――閉ざされた――意味あるいは価値があり得るのか、ということが、ぼくにとっては大きな問題だ。賞は「獲る」ではなく「受ける」のだということにこだわるのは、おそらくこのことと関係がある。つまり、行為の能動性は文脈内抗争や文脈間のメタ抗争に対してあるのではなく、閉じた、自律的な意味に対してあるのだ、と言いたい――のだが、本当に言えるのか、ということ。「あらゆるものが政治的である」などということは当たり前すぎてほとんど何も言っていないに等しい。だが、だからこそ、政治的関係性に還元できないものがあり得るのか、あり得るとしたら、それはどのような手続きや技術によって抽出可能なのか、が問題となる。)