●25日にICCでやる谷口暁彦さんのイベントでは、谷口さんの作品の話と、あと、フィクション=ごっこ遊びの話をする予定。
http://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2017/open-salon-artists-talk-taniguchi-akihiko-feb-25-2017/
ウォルトン(「フィクションを怖がる」)とウィニコット(「遊ぶことと現実」)は互いに補強し合っている、という話。遊びのための「道具」は、モノであり同時に象徴であって、「遊ぶ」という行為は、モノを用いて、モノ(たち)のもつ象徴的な意味の布置を書き換えることだと言える。一人でするごっこ遊びは自分を変え、共同性をもつごっこ遊びは関係-社会を変える。そして、ウィニコット的な「象徴(シンボル)」は、イコンやインデックスとの連続性(動物との連続性)をもつが、より可動性の高い(より遊戯的な)記号である、と。ウィニコットは小児科医でもあるクライン派(後に袂を分かつけど)の精神分析家で、メラニー・クラインは、遊具を使って遊ぶことを通じて、(言語能力が充分でない)子供の精神分析を可能にした。
(遊びの重要性は同時に、「ガチ」なものの忌避を意味する。危機的状況は火事場の馬鹿力を生むけど、それはあくまで緊急事態であって、「ガチ」の恒常化は頭や心を硬直化させ、疲弊させるとぼくは思う。)
●今週中にやらなければいけないことが三つあって、それぞれが別の方向を向いているので、頭がごちゃごちゃで余裕がない。
●今後、社会のなかで「信用」というものを保証する様々なシステムの代替物となるかもしれないのがブロックチェーンということなのだろう。たとえば、知名度、権威、公的に書かれた歴史、賞、専門家コミュニティによるお墨付き、評判、カリスマ、あるいはオピニオンや批評的言説などといった、「社会的にメタレベルとして機能するもの」に代わって、ブロックチェーンの「書き換え不能性」があるものの価値や信用度の裏打ちをする(根拠を与える)ようになるのではないか。計算がメタレベルを代替する。それは、唯一の真実という中枢の存在しないポストトゥルースの時代に、トゥルースを分散的に保証する唯一の方法になるのかもしれない。いや、あくまでも「かもしれない」だけど。