⚫︎出先からの帰り、地元の駅前で、停車したバスに乗って発車時間を待っている。午後8時くらい。ベビーカーを伴って、若い夫婦が乗り込んでくる。短パン姿の夫は、足首からふくらはぎにかけてけっこう派手なタトゥーが入っている。二人は縦に並んだ席に座り、ベビーカーを傍に固定する。バスが発車してしばらくしてそちらを見ると、若い夫婦は二人とも眠っているようだった。一人のこされたベビーカーの子ども(二歳くらいだろうか)は、両親たちとは逆の方向に首を向け、物憂げな顔で中空を見つめている。
このような子供にもすでに、喜びがあり、欲望があり、怒りがあり、悲しみがあり、不安がある。そう感じると、自分の周りの重力が増したような感覚になる。だが、今、この子供は、そのような感情の中にいるのではないように見える。このような子供でもすでに、「自分が存在する」という謎の重さに向き合っている。これは、こちらの思いの過度な押し付けだろうか。この子にはおそらくまだ、言葉もなく、人類が蓄積してきた知のかけらさえ分け与えられていない。しかしだからこそ、「自分が存在している」という謎から身を隠してくれるガードは何もない。何ものにも守られることなく、誤魔化すこともできず、否応もなく、「自分が存在している」という謎にむき身のまま晒されるしかない。不意に否応もなく「この子どもはわたしだ」と感じる。「自分が存在する」という謎の重みにむき身で向かい合う子供を目の前にして、わたしは「この宇宙が存在している」ということの重みを耐え難く感じる。