●ネットでみつけた、おそらく違法にアップロードされたものであろう、英語字幕付きの粗い画質の動画で、『野ゆき山ゆき海べゆき』を観た(モノクロ版)。この映画を前に観たのはたぶん三十年くらい前だったはずだが、今、記憶に残っているその時の印象とまったく違っていて驚いた。良くも悪くも、ホモソーシャル的な男の子たちの集団の姿(マウンティング合戦やなれ合いや喧嘩など)を、牧歌的な調子で描いたような映画だったという記憶が残っているのだが、そうではなく、この映画では少年たちははじめから「猿山のサル」にたとえられ、あきらかに愚かな存在として提示されている。映画自体は、ユーモラスでのんびりした調子で、少年たちの集団の有り様を批判するとか糾弾するとかいう感じはないのだが、ただ、彼らはたんに愚かなのだ。
(医者の息子で坊ちゃんと呼ばれて大人たちからちやほやされ、小狡くて、自分だけは愚かな少年たちとは違っていると思っているような、双眼鏡で状況を俯瞰する、鼻持ちならない、しかし実は他の少年とまったく変わらず無力な主人公は、あきらかに大林宣彦が自分の少年時代を投影した存在だろう。)
少年たちはどこまでも愚かで無力である。当初、少年たちはそのことに無自覚で無邪気なのだが、しかし、徐々に自分たちの愚かさや無力さに気づかざるをえなくなってくる。少年たちの行為は結局のところ遊戯に過ぎず、毒にも薬にもならない。そして、決定的に、否応なく、自分たちの愚かさと無力さを思い知らされる出来事があって、映画が閉じられる。ただ、愚かさと無力さの自覚、そして悲しみと怒りだけが残され、何の救いもカタルシスもないままで、映画が終わる。のんびりと牧歌的な調子ではじまるこの映画の、徹底した救いの無い終わり方は何なのだろうかと思ってしまうくらい、ただ苦さだけが残る。
(愚かで無力なのは、なにも少年たちに限ったことではなく、大人たちもまた、皆、愚かで無力であるのだが。)
この映画全体が、ひたすら徒労の表現であり、徒労を通じて苦さへと至る道筋の提示であるかのようだ。表面は、ユーモラスで牧歌的な調子でコーティングされているが、それが愚かさと無力さにしか行き着かない。無力さがユーモアや牧歌調によって救われず、むしろそれが苦さへの順路を示しているかのようだ。少年たちはただたんに愚かで無力であり、無自覚で無邪気だった状態から、それを自覚して苦さと共にあるしかない状態へ移行するだけ。だが、この苦い感触がとても強く残る。
この感じなのは、おそらく、1986年くらいの時点では、こういう形でしか戦争を主題化できなかった、ということなのだろうと思った。