●DVDが出ていたので改めて『魔法少女を忘れない』(堀禎一)を観た。やはりすごく面白い。
最初に観た時に興奮しながら書いた感想
(http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110518)。
●この映画は、忘れられる側の話なのか、忘れてしまう側の話なのか。忘れてしまうということは、何かを忘れたということをも忘れてしまうとうことだ。しかし、忘れられた側は、忘れられたことを忘れることはない。そういえば前作『憐』もまた、未来から来たことによって接触したすべての人間から忘れられなければならない少女の話だった。
●この映画で印象的なのは、見られる人であるより見る人であるように思う。みんなから愛され、しかしある瞬間から次々に忘れ去られていってしまう元魔法少女よりも、彼女を見る人である少年の方が印象的だ。彼を演じる俳優は何かを「見る顔」によって選ばれたのではないか。少女を見る彼の顔は、「受動的な眼差しをもつ顔」として示されている。彼は少女のイメージをひたすら受け入れているように見える。
そして、「少女を見ている少年」を見ているメガネ少女がいる。少女を見ている少年の眼差し=顔が、少女のイメージを受動的に肯定するような表情であるとすれば、「少女を見ている少年」を見るメガネ少女の顔は、ある「受け入れ難さ」を受け入れようとする顔であろう。メガネ少女が見ているのはたんに少年であるが、その少年はほとんど常に「少女を見る顔」をしているのだ。
メガネ少女がメガネをかけているのも、時代劇口調で喋るのも、少年の期待通りの「幼なじみ」であるためだ。しかし、期待通りである限りにおいて、少年にとってメガネ少女は馴染んだ環境であり、馴染んだ環境をあらためて「見る」ことはない。
そしてもう一人、見る人である少年までも含めた少年少女たち全てを「見る人」である女教師がいる。一見、生徒(少年少女)たちと友達のような関係をつくっているかに見えるこの女教師は、しかし自らが元少女であるという位置を常にわきまえ、別の位相から彼らを見ている。ミュージシャン志望のもう一人の少年の歌う歌を聞いて、「もしかしてまた好きな子ができた?」と言い、「その娘がちょっとうらやましい」と口にする女教師は、自分が決して再び「その娘」の位置につくことがないこと、つまり少年少女たちと同等の関係の中にいないことを知っている。
●このような、見る、見られる関係を最も端的に現しているのが海水浴の場面であろう。
●少年、元魔法少女、ミュージシャン少年が、女教師の運転で海水浴に出かける。海岸ではまず、ミュージシャン少年と元魔法少女が海に入ってはしゃぐのを、砂浜のビーチパラソルの位置で女教師と少年が見ている。パラソルにいるのは二人とも「見る人」である。ここで教師だけが水着ではなく、ポーターの長そでトレーナーとキュロット姿であり、ここでも彼女は自らの位置をわきまえていて、生徒たちに海へと誘われてもパラソルの位置から動かない。これ以降、見る(パラソル)-見られる(海)関係は、主に切り返しによって示される)。
●次に、少年はパラソル(見る位置)に教師を残して海の家に行き、そこで偶然、そこにいるはずのないメガネ少女と出会う(この偶然の出会いの場面のモンタージュはとても興味深い)。つまり少年は「見る位置」から離れ、予想外の偶然によってだけメガネ少女を「見る」とが出来る。この後、(ふいに「見られた」ことで取り乱して)おぼれそうになったメガネ少女を助けた少年は、「メガネのないチイちゃんを見るのは久しぶりだ」という意味のことを言う。おそらく少年が真にメガネ少女を「見る」のはこの時だけなのだ。もっと後の、メガネ少女の「告白」の時でさえ、少年はその向こう側の元魔法少女を見ている。
●そして、今度はメガネ少女と元魔法少女が海で遊んでいるのを、パラソルの位置から、女教師、少年、ミュージシャン少年の三人が見ているという構図になる。しかしここで三人の話題は「みらいちゃん(元魔法少女)」であり、見られているのは元魔法少女であろう(しかし勿論、観客は二人のアイドルの水着姿を同時に見ているわけだが)。ここで、見られている海の側の二人がパラソル側の方を向いて手を振って誘うことで、今まで切り返しで捉えられていたパラソルと海という構図-反構図の関係が、パラソルのさらに後ろの位置のカメラから同一画面に納められることで(見る-見られるが)一体化し、少年とミュージシャン少年も海へと向かい、四人が同一の地平に立つこととなる。見る-見られる関係の消失(四人の一体化)は、後の少年の部屋のベッドの上でのダンス場面でも実現される。だがここでも教師だけはパラソルの位置に留まっている。
●ここで面白いのは、しかし女教師はたんに見る人であるだけでなく、観客に対しては勿論見られるイメージであることだ。ここで彼女はキュロットからのびる脚を解放することで、二人の少女の水着姿にイメージとして拮抗している。彼女は見る人であるだけでなく「脚」を見せる人でもある。実際、このパラソルと海との切り返しの場面ちゅうずっと、女教師は脚を常にせわしなく動かして、様々な脚の表情を画面に向かってなげかけている。彼女は元少女であり、既に少年少女と同一の地平にはいないことを自覚しているから、(少年少女たちを見守りながらも)彼女たちとは「別のやり方」で、観客に対して誘惑を発しているのだ。それに、この映画の冒頭は、ピアスをしたシェイクスピアの肖像につづいて、女教師の足のカットからはじまったのだった。
●見られる人であり、後に忘れられる人となる元魔法少女、見る人であり、後に忘れてしまう人となる少年、既に忘れてしまった人としての距離からすべてを見ている人である女教師、そして、(少年を)見る人であり、(少年から)既に忘れられてしまった人でもあるメガネ少女。そして、元魔法少女は忘れられることによって必然的に「見る人」となろう。しかしこの位置は、実は「時代劇口調以前」のメガネ少女によって先取りされていたとも言える(時代劇口調以前のメガネ少女は、少年によって忘れられていた)。「忘れられるとはそういうことだ」と口にするメガネ少女こそが、元魔法少女本人以上に、彼女のことを理解している。この映画は、そのような人たちがそれぞれに関係する映画であるといえるのではないか。
●あと、すごく「自転車の映画」で、人と人との関係がほとんど自転車を用いて語られているとさえ言える。しかしここでも、女教師だけが自転車をもたず、自動車の人であることによって少年少女から距離をとっている。