●U-NEXTで『海獣の子供』を観た。自宅のPCで観ている時点で(絵的にも音的にも)表現力が半減してしまっていると思うのだが、それでも、よくこんなものをつくったというくらいすごいことになっていた。まず、五十嵐大介の絵がちゃんと動かせているというだけでもすごい。
ただ、ぼくはどうしてもこの「物語」には興味をもてなかった。「隕石は精子で海は子宮」という比喩は、ある程度の科学的な裏打ち(妥当性)はあると思うのだけど---生物の起源は隕石によって宇宙からもたらされたという考え方はある---でも、「それはそうなのだろうけど、だから何」みたいな感想しか抱けない。この「隕石は精子で海は子宮」という地球上での生命の誕生の構造が、アナロジーとして、個としての人の誕生、または銀河や宇宙の誕生とも、フラクタル的に重ね合わされ、宇宙的な規模での生命の秘密(本質)のようなものとして提示される。これだけすごいヴィジュアルを見せられて、その根本にあるヴィジョンがそんなものなのか、と。
この物語で、隕石=精子を担当するのが空くんで、海=子宮を担当するのが海くんだとして、どちらも少年ということになる。さすがに、隕石=精子が少年で海=子宮が少女(ルカ)だったら、図式としてあまりに静態的でありきたりになりすぎてしまうからそうなっているのだろうけど、それだと、主人公の少女は、傍観者と言うと言い過ぎかもしれないが、目撃者ではあっても、当事者ではないという感じになってしまうのではないか。あくまでゲストなのかもしれないが。
と、思って観ていたら、ラストで見事に「今まで目撃してきた事柄」が少女の方へ返ってくる(少女が海くんの位置にくる)、という仕掛けになっていて(隕石→ボール)、このラストにかんしては、おお、そうくるのか、やられた、と思った。
(ただ、ここで言う「ラスト」とは、エンドロール前のラストであって、エンドロールの後にいくつか付け加えられているシーンについては、蛇足であるように感じてしまった。せっかくあんなに見事に終わっているのに、追加説明みたいなシーンは必要だろうか、と。あるいは、主人公の少女が、生まれたての赤ちゃんのへその緒を切るところは入れたかった、というのまでは分かるとして、そこで終わってもよかったのではないか、と。)