●『呪怨: 呪いの家』では電話機が印象的に使われる。母親が撲殺される場面では凶器となり(1988年の黒電話はまだ重くて充分凶器になる)、妊婦が夫に殺される場面では、裂かれた腹部に電話機が埋め込まれる。電話機とは、遠くから(彼方から)やってくる声を受けるものである。電話のモチーフはたとえばデヴィッド・リンチにもよく現れるが、ここで電話はおそらく、幻聴の形象化だ。そして、多くの場合に幻聴は、逆らうことの出来ない指令(命令)としてやってくる。ここではないどこか遠くから「殺せ」という命令が届く。
(少女の母を殺す少年は、少女から脅されて殺したのだし、妻を殺した夫は、妻に殺されそうになってもみ合ううちに殺してしまう。自分が望まない殺しを、状況に強いられる形で行う。)
この作品からは、妊婦の身体に対するオブセッション的な恐怖がみられる。個別的な、よく知っている、親しいはずの女性が、妊娠することで、妊娠-出産という、繰り返される普遍的システムへと繋がり、得体の知れないものへと変質してしまう。勿論これは、きわめて男性的で身勝手な妄想=恐怖であろう(故にこの恐怖は、世界にあるというものというより、恐怖する者の脳内にあるものだと言えるかもしれない)。生命がそこに宿る器としての子宮は、生命がそこからやってきて、そこへと戻っていくような彼方と接続している、かのような。子宮は閉ざされたものではなく、ワームホールのようにしてあの世と繋がっている(外のものが内に宿る)。夫は、自分が殺した妻の腹部に埋め込まれた電話機を発見する(夫が電話機を埋め込むのではなく、ただ腹部にある電話機を発見する)。彼方へと繋がり、彼方から来るものを受け取るという意味の重なりによって、子宮と電話機が並置される。そして電話は鳴り続けている。命令=呪いとのリンクは切れてはいないということを、子宮と電話機との並置は示している。
だから胎児は、留置場にいる夫のところにまでやってくる(留置場でも電話は鳴り続ける)。子宮から外に出された胎児は、夫の口の中に入ろうとして、夫に死を与える(内から外、外から内)。
(幻聴とは脳=自分のなかの他者の声、あるいは自分から切り離されて他者と化した自分の声なのだとすれば、胎児は、子宮から来たのか、それとも夫の脳内の産物なのか。夫は、彼方からの呪いに殺されたのか、自分から切り離されて他者と化した自分の声に殺されたのか。この作品は、内側と外側、包むものと包まれるもの、能動と受動の、どちらがどちらか分からなくなるような複雑なトポロジーによって出来ている。)