2023/02/28

●「人類最後の贈与」(樫村晴香)を読んだことで刺激されて、古い「ユリイカ」を引っ張り出してきて「Quid? ソレハ何カ 私ハ何カ」を読んだ。

スピンクスはオイディープスの「欲望」ではなく、彼の外にあり、(抑圧されたものの回帰ではなく)無関係な両者が偶然(運命)として出会うことにより「人間」という概念(分節)が到来し、贈与される。

対して、たとえば『わたしは真悟』において、少女(まりん)は少年(悟)自身であり、彼の「存在」の模造=鏡像である。

《(…)少女は異界の女たちとは異なり、ヒステリー的欲望、すなわち存在を時間の中に登記しようという欲望、つまりごく真っ当な「思いをとげようとする」主体としての欲望を持たず、反対に、意識を失う。そのことで、少年と少女は出会い得る。美しい少女は少年の専一的対象であり、少年の視覚であり、彼が父と言葉とをもたない限りは、唯一の彼の存在であり、つまり彼自身である。父親が来るべき位置に少女は滞留し、それゆえ言葉は、少女から渡されるしかない。この言葉は、出所不明な声、そして本質的には、語り手のいない文字としてのみ渡される(…)。》

《少女が意識を失うなら、その時彼女は少年と同じであり、少年の真実となる。少女の眠りと、少女の意識の喪失は、この現実の時間に登記されない少年の存在の、この現実の側での表象だ。その美しい姿は、転移の手前の外傷的視覚の場所で、少年の唯一の「中身」でありつつ、この現実の側で、彼を演じる彼の唯一の他者となり、友人となる。それゆえ彼女は、彼に父として言葉を与える。》

《父から与えられることのなかった、父の言葉。それは「私は何か」と言う言葉である。それは「私は何か」と言う問いへの答えであり、その答えには「私は何か」と書かれている。機械「真悟」は少年「悟」に、「私はあなたを愛しています」という少女の言葉/文字を伝達しに帰ってくるが、その環帰自体が、少年の生み出した「真悟」と言う意識、すなわち「私は何か」という問い、の答えであり、しかも少女は、本当はこの言葉を発する前に消滅しており、この言葉は、少年が彼女に向けて発した、彼自身のものである。》

《この言葉は、外傷としての誕生の場所、外傷の視覚から到来し、それは見開かれた目、世界のイマージュとして到来した私自身、そしてまた私自身であるところのこの世界の視像が、一瞬そこから身を起こし、他者に向けて、「それは何か」と、呼びかけようとする動きである。それは言葉の手前で、世界そのものが痙攣し、「何なのか」と手を伸ばして、人間なろうとする瞬間だ。》

《それが父の前で発せられ、父の姿が発するなら、「何なのか」という叫びは、「それは父である。それは私でありお前ではない、お前は真悟である」という声を聞くだろう。叫びは「私は父である。父は私ではない」という答えを生み、世界と私は分離するだろう。そして声は分化し認識の道具となり、目は世界そのものから世界を見る意識の穴へ縮小するに違いない。》

《だが、他者に向けて立ち上がる一瞬の動きが、父の不在を巡るなら、声は「それは何か」と言う叫びにとどまり、意識は強度として、永遠に「それは何か」という問いを巡る。その叫び、強度は、未分化な世界そのものの意識であり、何も知らず、何も思い出さず、何も考えることができないが、しかしそれは、そこから分離し、どこかに行こうとする力動、何かに向かおうとする力動だけはもっている。》

《だがそれが、闇雲にどこかに行こうとするあてのない強迫に従うのではなく、ちゃんと少年のもとに帰ってきたのは、少年が少女という、自己の同類を得たからである。「それは何か」に滞留する少年の叫びは、その未分化な意識をこの世界の側でそれとして表象し、体現する、意識のない少女から、彼自身に返される。その時、「それは何か」は、「私は何か」へと、わずかに成長する。それは宛先のない強迫が、同類をはじめて見つけ、彼自身の眠りを眠りつつも、彼自身ではない者から返されることにより、自己の発信地を見つけることの効果である。》

●改めて書き写していて、改めてすごい分析だと思う。

この「私は何か」という問いの発現は、通常は二つの落ち着き先を持つ。

《「私は何か」は原初的他者に向かう高揚感、満足感と、その他者に出会わなかった失望と共に、多くの場合は、私の意味、私の無意味、私の価値、私の役割、その不在という、自我に関わる表層的・日常的意識の中へ、去勢されて帰っていく。》

《「私は何か」を自我の意味へと去勢せず、しかもそれをあくまで言語と認識の中に留めおくなら、神話が再来し輪廻が始まることになるだろう。そこでは世界が到来し、目に入りこみ、私となる瞬間が、多形倒錯的・退行的に保存されつつ、他方で全ての意味作用はその瞬間に回付され、認識から解き放たれ、最終的に「私はどこにもいる」が意識の中で造形される。》

●しかし、このどちらもが拒否されるとき(楳図かずおもそこに含まれる)「一神教」的なものが立ち上がる。

一神教創始者たちは、この飛躍、すなわち意識と存在への、視覚と動物化のこの流用を、侮蔑、嫌悪、拒絶した。(…)動物とメタモルフォーゼの拒否には、この現在、この自我の価値へのヒステリー的拘泥と、死の恐怖の再定位が賭けられていた。そしてアメノフィス四世が太陽の光と女性の美しさだけを信じ、ブッダが「何者にも耳を貸すな」と言ったように、それは世界と私との現出の瞬間の視覚の場所に、断固として留まり、そこから身体を生成させず、説話と権力を生成させず、その瞬間に受動化して、目を世界に預けたままにしようとする。》

●ここでぼくは、「輪廻」を主題としつつも、強く一神教を感じさせる作家として高橋洋を思い出す。髙橋洋における「輪廻」とは、多形倒錯(メタモルフォーゼ)的なものではなく、「陰惨な殺し合いの場面」が無限回繰り返されるというものだから、明らかに《世界と私との現出の瞬間の視覚の場所に、断固として留ま》ろうとすることだと言える。

(髙橋洋の用語で言えば、「恐怖」とは一神教的なもの―-外傷の場に留まり続けること-―であり、対して「怪奇」は多形倒錯的、メタモルフォーゼ的なものなのだと思われる。)