2022/11/10

●U-NEXTで『秋立ちぬ』(成瀬巳喜男)。すばらしかった。ちょっと『ドイツ零年』とか『動くな、死ね、甦れ』とかを思い出す。風景・空間・環境の中にぽつんと突っ立っている子供(たち)の存在のよるべ無さ。

少年と少女、二人の子供の「涙」を、それそれ一度ずつ、しかもちらっとしか見せていないのだが、不意をつくように挿入される「涙のカット」に驚きと共に胸がギュッと掴まれる。特に、女の子の方の「涙」が、ここで来るのかというタイミングで現れた時の動揺と同時にくる痛さ。胸が痛いというと感傷的になり過ぎるのだが、なんというか、よるべ無さの痛さ。

父の死によって、少年が田舎から母と二人で親戚を頼って東京に出てくる。まず、東京の少年たちとの間に軋轢が起こり、親戚の家での居心地の悪さが描かれる。通俗的な物語なら、そのような側面が前面に出てくると思われるが、この側面が「物語」として語られるというより、少年にとっての環境(環境への馴染めなさ)として浮かび上がる感じだ。そして、あまりにあっさりと母は子供を捨てて駆け落ちする。少年は東京で、居心地の悪い親戚の家で、一人で取り残される。

(長野から来た少年は語尾に頻繁に「~ずら」「~じゃん」をつけて話す。反復される「ずら」と「じゃん」が作り出すリズムが作品のリズムを作るのと同時に、それは東京言葉の作る表情から浮いてもいる。)

この作品で少年のよるべ無さを際立たせるのは、あくまで環境であり風景だろう。ロケをメインに作られた作品で、おそらく少年の住む八百屋の店先と室内、少女の住む旅館の室内のみがセットで(もしかすると料亭の室内もセットかも)、それ以外の場面は撮影所の外で撮影されていると思われる。この映画には、1960年頃の、東京オリンピック以前の東京がたくさん映っている(大瀧詠一がこの映画のロケ地を全て特定した、というのは有名な話だ)。とくに、交通量がすごく多いのに信号がない銀座の大通りの雑多な荒っぽさ(長野から出てきた少年はなかなか道路を横断できないが、東京の子供たちは嘘のように容易く横断していく)と、少女と過ごす日常から浮遊した異界としてのデパートの屋上、そしてクライマックスと言える晴海埠頭から東雲の埋立地の荒涼とした風景―埋め立てられたばかりで、剥き出しの土の平面がどこまでもどこまでも広がっている―が、他の成瀬作品とは異質の表情を刻みつけている。

(しかしセットの空間もまた素晴らしいのだが。)

この映画が描くのは、少年の不幸な境遇であるよりむしろ、よるべ無い少年に「寄り添おうとする」二人の人物と少年との関係だろう。少年は決して世界から見放されたわけではない。しかしその「寄り添い」は、極めてか弱く、頼りない。少年には救いがあるが、その「救い」は薄氷のようなものなのだ。その寄り添いの頼りなさがよるべ無さを際立たせる。

まず、少年が身を寄せる八百屋の息子が彼に積極的に声をかける。何かと少年を気にかけ、バイクに乗せて外に連れ出したり(二人乗りのバイクのカットの素晴らしさ! )、少年を叱る両親から彼を庇ったりする。息子は少年に、八百屋が自分の代になったら片腕になってくれとまで言う。少年の見せる「涙」も、この息子の歌う歌によって導かれたものだった。そして「物語」が終わった後でも、少年は彼を支えに大人になっていくのだろう。

(また、八百屋の娘の少年に対する無関心も興味深い。彼女は居候の少年を嫌うでもかまうでもなく、受け入れるでも邪険にするのでもない。このクールでサバサバした距離感は、当時としての「現代っ子」の表象かもしれないが、この作品に一つの豊かなニュアンスを付け加えている。そして娘の彼氏は、学生時代の「運動」から足を洗って、ちゃっかり大企業に就職しようとしているような男だ。)

しかしだとしても、息子はまだ若者であり、「兄貴」ではあっても保護者ではない。少年を保護している八百屋の家屋敷は「親父」のものであり、店を手伝っているだけの息子に権限はない。また、同年代の友人との付き合いや、異性への関心が優先されることもあり、少年にとって「重要なこと」を軽く見て、結果として裏切ることになる。

そしてもう一人、少年より二つ年下の少女がいる。彼女は少年より年少であるが、東京の人であり、裕福でもある。親に対してわがままを言うこともできる立場だ。父を亡くし、見知らぬ土地に来て、肩身の狭い居候をしている少年とはだいぶ違う。少女は、優位な立場にいるが故のふわふわっとした「濁りのなさ」で少年と接する。そして少年の立場に同情する。ただ、一見盤石な立場にあるかのような少女だが、実は妾の子であり、彼女の保護者である母の経済的な余裕は「別の本宅」を持つ「旦那」に依存したものだ。母の被保護者である少女は、「旦那に従わざるを得ない母」に従わざるを得ない。それにより旅館は売りに出され、少年との関係は破綻する。

(八百屋の息子も、少女の母の旦那も、「土地を売れば金になる」という話をする。東京オリンピックを前にした地価高騰の現れでもあると思われる。)

母に捨てられた息子と、母の理不尽を受け入れられない少女は、二人で「海」を目指す。少女は臨海学校で既に逗子へ行っており、少年の母は駆け落ちして熱海にいて、八百屋の息子は友人たちとバイクで江ノ島へ出掛けていく(みんな「海」に行く)。長野生まれで海を見たことのない少年には保護者も旦那も友人もなく、彼を「海」に導いてくれる者は年下の少女しかいない。だが、二人の行く海は、少年のイメージしているような「海」ではなく、晴海埠頭であり、埋め立てられたばかりの東雲の、ずっと土塊ばかりが広がっている場所だ。埋め立てられたばかりの海は青くなく、黄色い。

これは日本の経済成長を象徴するような光景であるはずだが、見た目としてはただただ(戦後の焼け野原のように)荒涼としている。だが、その何もない土の広がりは、大人たちの関係(銀座あたりのゴチャゴチャした空間)から逃れてきた子供たちにとっては自由の空間でもある(「これだけあればいくらでも野球ができるじゃんよ」と少年は言う)。この光景は「大人の関係」に把捉される田舎とも東京(銀座)とも異なっている。糸の切れた凧のように「自由」な子供たちは、この自由の空間でただ彷徨う。荒涼とした自由の空間でのよるべ無く無防備な彷徨は圧倒的に充実している。しかし子供たちがこの自由の空間(その密度)に「保護者なし」で耐えられる時間は限られている。やがてタイムリミットが訪れて二人は強制送還される。

(この映画は「橋」の映画でもある。少年は、橋の上で着物で踊る少女に出会い、バイクで橋を渡って多摩川にカブトムシをとりに行き、タクシーで橋を渡って「海」を目指す。)