●Netflixの新しい「呪怨」のシリーズのシーズン1(『呪怨: 呪いの家』)を一気観してしまった。1988年から1997年までの話なのだが、これは『邪願霊』の年から『リング』の前年までということで(『女優霊』が96年)、Jホラーの誕生から爆発直前までということになる。だとすると、シーズン2は『リング』から『呪怨』まで(1998年から2000年まで)の話、ということになるのだろうか。つまりここでは、Jホラーの歴史が意識的に振り返られている。そしてそのような歴史の振り返りが、ジャンル内部の問題としてではなく、現実に起きた事件とのリンクのなかに置かれている。
この作品で面白いのは、「呪い」が「呪いの家」の中から外へ広がるのと同時に、外から中へ持ち込まれているようにもみえるという点だ。1988年を舞台としたエピソードの系列の一つに次のようなものがある。他の学校から転校してきた少女を、同級生の少女たちが嫉妬し(あるいはたんにヨソモノが気に入らないという理由で)、知り合いの少年にレイプさせるという形で攻撃する(このレイプの現場が呪いの家だ)。しかし、被害者である少女が一転、加害者の少年を誘惑して自分の味方につけ、さらに事件をネタに脅迫もして、少年に自分の母親を殺害させる。この二つの事件は、呪いの家とはほぼ関係がないと言える。少女たちの少女への感情(憎悪)のありようと、少女への攻撃の手段として男性を使ってレイプさせるという手法をとること(少女たちの「想像力」がそのような形で働いてしまうこと)。そして、被害にあった少女が、もともと母娘関係において問題を抱えていたこと(殺したいと思うほど少女が母を憎んでいること)。この二つの「呪い」は「呪いの家」とは無関係に、その外(1988年の日本)に既に市中に自律的に存在していた。外に存在している呪いが「呪いの家」の中に持ち込まれたに過ぎない。
(呪いを刻まれ、運命を狂わされた後も---幽霊から子供を授かったことから---五話で消えてしまうまでずっと困難な状況で生き続けるこの少女は、幽霊=呪いの根源の分身として生かされている存在でもあり、シーズン1の裏の主人公と言える。)
作中で、実際に1988年から1989年にかけて起こった「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が参照されている(あるいは連続幼女誘拐殺人事件がほのめかされてもいる)、つまり、フィクションの外から中へ持ち込まれている(少年グループに誘拐された女子高生が監禁されて四十日間にわたって暴行を受け続け、殺され、死体はドラム缶に入れられてコンクリート詰めされたというこの事件は、この作品における「大家の息子」のエピソードと通じるものがあり、呪いの---フィクションの外にある---起源の一つであろう)。それは、この物語(フィクション)の背景に、コンクリート詰め殺人のような事件が起こる日本の社会があることをも示している(そのような事件を生み出してしまう、あるいはそのような事件があったことを知ってしまった、ある種の想像力---恐怖---の形があった、ということを示している)。そして、この作品の前述した少女たちのエピソードは、そのような1988年の日本社会を背景にしたフィクションなのだ。それは、そのような時代を背景にしてJホラーの萌芽(『邪願霊』)があったのだ、ということでもある。実際、女性の女性に対する暴力性(あるいは憎悪)が、男性を使ってレイプさせるという形で顕在化されるというフィクション(想像力)は、現代の感覚からすると古くさい---ドン引きされかねない危険をもつ---もののように感じられる。しかしおそらく、1988年当時にはまだ生きていたと思われる(フィクションにおける紋切り型の一つとして一定のリアリティをもっていたように思われる)。つまり、このエピソードは、それ自体をフィクションの考古学的考察のようなものとして機能させるために、1988年というラベルが付された上で、ここに置かれているのではないか。
「呪怨」のシリーズにおいて「呪いの家」は、呪いの発生源、あるいは感染元というより、様々な呪いを媒介し、関係づけ、包摂したり吐き出したりする、一つのフレームのようなものとして存在していると思う。そのフレーム性は、『呪怨: 呪いの家』でも五話と六話においてはっきりと形象化されている。呪いの家それ自体は、媒介でありフレームであるから、時間を越えて様々な呪いを連結させて、呪いの無時間的トポロジー的配置を生むのだが、一つ一つの「呪い」は、ある歴史的な時間のなかで個別的に発生し、それが発生した背景として、それぞれに異なる時代性(空気)を帯びている。従来の「呪怨」においては主に、呪いの家の(無時間的な)フレーム性が強調され、問題とされてきたと思うのだが、『呪怨: 呪いの家』では、それと同時に「呪い(恐怖的なフィクション)の歴史性」や「個別性」が問題にされているところがこれまでと異なっているのではないか。それはつまり、ここでは---現実と結びついた---Jホラーの歴史性が問題とされているということでもあるだろう。それが2020年に改めて「呪怨」がつくられることの意味の一つなのではないか。
(病院にいる子供が幽霊の子供の分身であるなら、最後に出てくるブリーフの男が「大家の息子」なのだろうか。)