2022/10/29

●公開された『雀の戸締り』(新海誠)の冒頭十二分の映像を観たが、無茶苦茶面白そうだった。胸が躍るという感覚を持った。これは期待してしまう。とはいえ、事前に公開されていた最初の十分「だけ」が素晴らしかったという、『シン・エヴァ』のようなこともあるのだが。

その勢いで『天気の子』を観直した。『君の名は。』が、複雑で難解な作品であるのに対して、『天気の子』はちょっと拍子抜けするくらいなシンプルでストレートな作品だと思う。話の展開もほぼ一直線だし、テーマというか、「言いたいこと」も明快だ。人新世という背景の中での、子供の貧困の話であり、子供を労働力として搾取するな、大人は自分の責任を全うしろ(大人もまたカツカツであるとしても)、という話で、さらに言えば「美少女が世界を救う」という物語を大人が語ることには倫理的に問題があるという問題提起でもある。メッセージ的な次元では、誤読しようがないくらい明快だ。

物語としては、田舎から東京に家出してきた少年と、母が死んで保護者のいなくなった少女(+弟)という「孤児」たちが、東京という(悪い大人がいっぱいいる、そして衰退の一途を辿る)資本主義の魔都で力を合わせてサバイブしていく話と要約できる。社会全体が衰退していく時に、その衰退による打撃を最も強く受けるのが弱い立場にいる人たちであり、ことのほか、保護者を失った孤児たちであろう。孤児たちが、自分の特性を切り売りすることでなんとか自律的に生き抜いていこうとするのだが(そして、その「特性の切り売り」が自分の「価値(意味)」だと勘違いするのだが)、それはけっきょく大人たちにいいように搾取されて疲弊させられていくだけではないかと気づく。そして、孤児たちが、他人(大人たち)のために自分が疲弊していくこと(搾取されること)を強く拒否する、というところで終わる。このレベルでは「批評」の必要がないくらいわかりやすい。

以下は、2020年6月4日の日記からの引用。

ここで陽菜は、人を喜ばせるための代償として、自分自身をすり減らしていく。それはそもそも割に合わない行為であり、彼女にとっての自己実現は、やりがいを搾取されることによってもたらされていた。孤児は、大人たちに搾取されることによってかろうじて居場所を得る。帆高は、自分も孤児として陽菜の側にいて、彼女に寄り添っているつもりだったのだが、結果として、大人たちの搾取のための媒介となってしまっていた(孤児のつもりが、しょせん帰る場所のある家出人でしかなかった)。だからこそ帆高は、大人たちの搾取によって食い尽くされて彼岸に渡ってしまった陽菜を救出する「責任」を負うことになる。

作品としての「質」は、濃密な都市=東京都心部の描写と、自在でかつ繊細な水=雨の描写、そして、それらによる「水没する東京」というヴィジョンの強烈さによって支えられていると思う。『君の名は。』に比べると、アニメとしての躍動感という意味では後退しているように思う(心躍るようなアクションはない)のだが、その代わりに描写の強さと濃密さが前面に出てきている。この作品はある意味「社会派リアリズム」でもあるので、背景世界のリアルさに重きが置かれているのだと思われる。

以下は、2020年6月2日の日記からの引用。

初期の新海作品において、風景描写は主に登場人物(と観客)の感傷を貼り付けられるための広がりであり、あるいは、感傷を盛り上げる演出装置として機能している側面が強かった。それに比べこの作品では、風景は登場人物が存在するための「環境」であり、そこに登場人物の感情や感傷が反映される場所ではなくなっている。環境は、登場人物の存在よりも前にあり、登場人物はその環境下にあることを強いられている。登場人物たちはいわば風景から疎外されており、その場所は登場人物にとって(感傷を行き渡らせてくれるような)居心地のよい場所ではない。晴れ女としての陽菜は、そのような過酷な環境を、ほんの一時だけの幻として、居心地の良い場所に塗り替えることができる。

(新海誠の作品は素晴らしいと思うのだが、ぼくはどうしてもRADWIMPSの曲が好きになれない。RADWIMPSの曲が聴こえてくると気持ちがガクンと落ちる。)

『天気の子』では抑制気味だった「アニメとしての躍動感」という意味で、『雀の戸締り』の冒頭は素晴らしい。うわー、やってるなあ、と思う。ちょっと、やりすぎではないか、というくらいに。