2020-06-02

●U-NEXTで、『天気の子』を観た。普通に面白かった。残念ながら、『君の名は。』のような傑作ということにはならなかったと思うけど、とても充実した作品だと思う。

物語的にはシンプルなボーイ・ミーツ・ガールの話であまりひねりはない。例えば、晴れ女としての陽菜が「人柱」で、彼女の消失と引き換えに天気が正常化するという設定は受け入れるとしても、消失した陽菜を帆高が救い出す過程が単純すぎて肩すかし感がある。『君の名は。』では、世界を救うために、論理的で複雑な過程を何ステップも踏む必要があった(その過程の複雑さこそが作品のフォルムを形作っていた)のに比べ、廃ビルの屋上にある鳥居をくぐっただけでOKとなってしまうのは、物語としての説得力に欠けるように思う(「口咬み酒」のような仕掛けがない)。ただ、その代わりに、警察署から逃げ出すアクションがあり、線路の上を走って廃ビルに至り、廃ビルでもまた一悶着あるという形で「過程」が描かれはする。でもそれはあくまで「逃亡」の過程であって「救出」の過程ではない(逃亡の過程は綿密に描かれ、それはとてもよいと思った)。とにかく鳥居までたどり着けばゲームクリアだというのでは、なぜ陽菜を救出できたのかというところに理由がない。そもそも、晴れ女が人柱だ(晴れ女の消失により世界が救われる)という設定にも充分な根拠が与えられていなくてあやふやだ。

君の名は。』では、物語が理詰めでしっかり組まれていたが、『天気の子』はそうでもない。物語はシンプルであり、展開の根拠があまり明確に示されない。だから、『天気の子』という作品の説得力を支えるのは、物語上の理屈や仕掛けや根拠ではないだろう。説得力を支えるのは、とても密度の高い東京の描写であり、天気(様々な雨や空)の描写であり、また、それらによって実現される「水没しつつある東京」というイメージの密度とリアリティであろう。つまり、背景にある世界像のリアリティがこの作品を支えていると思う。それは、我々が見たり肌で感じたりして知っている東京の風景の手触りのリアルさであり、異常気象にかんして我々が想像的に恐れている(予感している)、その恐れ(予感)のリアリティであり、また、比喩としての「沈みつつある(没落しつつある)東京」のリアリティでもある。ここで実現されている東京のイメージには、リアリズム的にも想像的にも比喩的にも高い密度とリアリティが実現されている。この点がとても素晴らしいと思う。

初期の新海作品において、風景描写は主に登場人物(と観客)の感傷を貼り付けられるための広がりであり、あるいは、感傷を盛り上げる演出装置として機能している側面が強かった。それに比べこの作品では、風景は登場人物が存在するための「環境」であり、そこに登場人物の感情や感傷が反映される場所ではなくなっている。環境は、登場人物の存在よりも前にあり、登場人物はその環境下にあることを強いられている。登場人物たちはいわば風景から疎外されており、その場所は登場人物にとって(感傷を行き渡らせてくれるような)居心地のよい場所ではない。晴れ女としての陽菜は、そのような過酷な環境を、ほんの一時だけの幻として、居心地の良い場所に塗り替えることができる。

この物語は、過酷な世界で演じられるシンプルなボーイ・ミーツ・ガールの話だと言える。ここで主軸は「過酷な世界」のリアリティの創造の方だ。この作品において主人公の帆高が、世界を救うことよりも陽菜を救うことを選択するという事実は、たんにボーイ・ミーツ・ガールの物語の典型に従っているに過ぎず、それほど重要なことではないと思う。そもそもこの物語には、世界を変えようとする契機や過程ははじめから何一つ描かれていない(世界=環境の変化は不可避的なものだ)。『君の名は。』では、主人公たち二人の関係の発端がそもそも、世界を救うための過程(システム)の一部として組み込まれていて、それにより悲劇的な構造が出来ていたが、『天気の子』の二人の関係にはそのような複雑な構造はない。二人はある環境の下で出会う。

あと、二人の刑事のキャラ設定はいただけないと思った。