2020-06-04

●『天気の子』について、もうちょっと。考えてみれば、この世から消えた(≑死んだ)女性を蘇らせるために男が冥界に降りてゆく(昇っていく)話だという点で、『星を追う子供』も『君の名は。』も『天気の子』も共通している。まあ、『雲のむこう、約束の場所』もそうだ、とも言える。新海誠はこの話も何度も反復して語る。ただ、その意味が『君の名は。』と『天気の子』とでは逆転している。『君の名は。』において、男が死んだ女を救おうとするのは、あらかじめ「世界を救うシステム」に組み込まれた行為である。一方『天気の子』では、女が犠牲になることで世界が救われるというシステムを拒否するために、男は冥界(彼岸)へと昇っていく。

『天気の子』は孤児たちの話だ。沈みゆく世界という過酷な環境で生きる保護者をもたない孤児たち。そのような状況のなかで、陽菜は「晴れ女」という特殊能力によって自分の居場所をみつける。彼女は自分の能力が人を喜ばせるということによって満足を得る。だがここで陽菜は、人を喜ばせるための代償として、自分自身をすり減らしていく。それはそもそも割に合わない行為であり、彼女にとっての自己実現は、やりがいを搾取されることによってもたらされていた。孤児は、大人たちに搾取されることによってかろうじて居場所を得る。帆高は、自分も孤児として陽菜の側にいて、彼女に寄り添っているつもりだったのだが、結果として、大人たちの搾取のための媒介となってしまっていた(孤児のつもりが、しょせん帰る場所のある家出人でしかなかった)。だからこそ帆高は、大人たちの搾取によって食い尽くされて彼岸に渡ってしまった陽菜を救出する「責任」を負うことになる。

帆高は陽菜に対して責任を感じる。その結果、陽菜を犠牲にすることによって世界が救われるというシステムを是認する大人たちに対して「否」を突きつけることになる。たとえ世界が滅びたとしても搾取させない、と。陽菜に対する責任を全うするということは、この世界(のシステム)に対しては罪を犯す者になるということでもある(だから警察は彼の敵対者となる)。帆高は陽菜を救出することで、孤児たちの搾取を認めない世界へと、世界を変化させる。たとえ世界が衰退し続けるのだとしても、特定の誰かがその衰退の犠牲になるのではなく、全ての人によって衰退が分け持たれなければならない、と(須加やおばあさんは、最終的にはそれを受け入れる)。『天気の子』とは、そういう話でもあると思う。