2021-01-16

●必要があってようやく『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(片渕須直) を観た。片渕須直が、どうしてもこれをつくりたかった気持ちがよく分かった。こちらを観てしまうと、『この世界の片隅に』の方は、重要な部分が欠落した作品のようにみえてしまう。

この世界の片隅に』(片渕須直)では、原作と比べると、非常に重要な登場人物であるリン(リンと周作の関係)のエピソードが多く切り落とされている。おそらく、上映時間の問題や制作費の制約のために、泣く泣くそうするしかなかったのだろう。とはいえリンは、主人公すずの分身のような存在であり(「すず」を鳴らすと「リン」と音がする)、また、サブの登場人物としてリンは、水原と同等の重要さをもっている。すずが水原と結婚したかもしれなかったという可能性が、すずと周作との結婚生活の裏にずっと貼り付いているのと同様に、周作がリンと結婚したかもしれなかった可能性もまた、二人の結婚生活の裏に貼りついている。だけど、『この世界の片隅に』ではリンと周作の関係はうっすらと匂わされる程度なので、この点についてバランスが悪くなってしまっている。

また、終盤で、すずが広島へ帰ることを決意する(結局は翻すのだが)のは、晴美の死を止められなかったことや、右手を失って家事労働が出来なくなったことへの負い目だけでなく、夫婦の仲がぎくしゃくしてしまっているということも原因なのだけど、どうして二人がいきなりぎくしゃくしているのか、その理由がリンのパートがないのでよく分からなくなってしまう。

リンと周作との関係を察してしまったすずは、自分がリンの「代用品」なのではないかという考えに悩まされる。この「代用品」という概念がこの物語ではとても重要であるはずだ。ここでは「代用品」がネガティブに捉えられているが、この物語全体としては、「代用品」であることによって(代用品という概念を媒介とすることによって)、新たな「固有の関係」が生まれるということをポジティブに示すものでもある。たとえば、すずは、兄の代理で、中島本町まで海苔を届けに出かけて、そこで周作と出会う。もし代用品のすずではなく、本来お使いに行くはずだった兄が行っていたら、すずと周作は出会わなかった。

(周作は、代用品として町を訪れたすずを、固有の出会いとして、この世界の片隅に見いだすことになる。)

最も重要なのは、ラストに示されている、右手を失ったすずと、『「右手を失った母」を失った孤児』とが、「失われた右手」を媒介に出会う場面だろう(失ったもの、失うことが、新たな関係への媒介となり得る)。すずたち(北条家)にとって、孤児は晴美の「代用品」として、孤児にとって、すずは母の「代用品」として、それぞれ相手に出会う。しかし、実際に出会ってしまえば、この出会いはどちらにとっても固有の出会いとなり、かけがえのない相手となる可能性が生じる。「失われた右手」という徴は、あるいは「代用品」という概念は、双方を出会わせる媒介となり、出会わせた後は消えることによって出会いを固有のものとする。孤児は、代用品として、この世界の片隅に固有の居場所を見いだす。

すずにとって、周作は水原の代用品かもしれず、周作にとって、すずはリンの代用品かもしれない。ここには、現実(現にこうである)と可能性(そうであったかもしれない)とが交換(反転)可能であるかのような気配が濃厚となっている。実際、すずと周作の出会いは、雑踏のなかで酔ったようになったすずの妄想か白昼夢(を、後に妹に絵物語として語ったもの)としてしか描かれない。そのことの現れであるかのように、すずは結婚生活を夢のようなものとして感じていて、いつか覚めるのではないかと感じている。

このような、虚実入り交じったようなふわっとした生活が、戦争という強い「現実」の力で徐々にキリキリと絞られて痩せ細っていく(可能性、虚構が奪われていく)というのがこの物語の進行で(すずにさえ「これが私たちにとっての戦いだ」というようなことを言わせてしまう状況にまでなる)、それはとてつもない破壊へと至ってしまうのだけど、その壊滅的な破壊の後にも、「代用品」という概念は働いており、新たな固有の出会いを生むというところで物語が終わる。

だからこそ、すずでもありえたリン、リンでもありえたすず、という、互いに互いの代用品でありえる重要な二者関係が描かれることは必須だったということだと思う。

(リンのパート以外でも、敗戦後の出来事が付け加えられていた。戦争中もちこたえた北条の家屋だが、戦後すぐその納屋が台風で壊れてしまう。また、原爆投下直後に広島に救援活動に行った呉の人たちが、帰ってきて徐々に体の調子が悪くなる描写など。)