2023/01/03

●大学での講義のために、『この世界のさらにいくつもの片隅に』をNetflixで観直していて、日付字幕について新たな発見したをした。この映画は「8年12月」という字幕から始まり、「10年8月」「13年12月」と進んでいく。そして次の「18年3月」で、戦争が始まるとともに、すずさんのところに周作とその父が求婚にやってくる。翌年の「19年2月」に結婚して周作の家に移り住み、次の月の「19年3月」に帰省するときには、もうすでにすずさんの頭に新しい生活のストレスからくるであろうハゲがあるのが発見される。わずか一ヶ月で…、というところに、一見ふわっとしてのんびりに見えるすずさんにさえ過重な気苦労がかかっていることが表現される。

このように、字幕は日付をずっと「月単位」で示している。それが、「20年3月」という字幕の後に、呉に初めての空襲があると、その次に「20年3月29日午前4時50分」という字幕が出て、時間まで示されるのは数度あるだけだが、今後「20年3月31日」という形で、日にちまで示されるようになる(4月以降は「20年」と言う年表記が取れる)。月刻みだった時間が日刻みになり、作品のモードがここから明らかに変化することが、日付字幕によっても明確に表現されていた。

ここまでは、確かに戦争による影響は至るところにみられ、日々、生活の逼迫は増してきてはいるものの(そして、周作とりんさんとの関係にモヤモヤしているものの)、大雑把に見れば、のんびり穏やかに暮らしている様が描かれている。しかしここからは、急速に、日刻みに、戦争がすずさんたちの生活から多くのものを否応なく次々と奪っていく様が示される展開になる。

ただ、日付字幕にかんして例外があり、二回だけ、字幕によって日にちが示されない日がある。「6月21日」に、行方不明だった周作の父が海軍の病院に収容されていることが分かり、父を見舞った周作の姉が(父から頼まれた時計の修理を口実に)明日、下関にある夫の実家へ行ってくると言った、その次の日、姉と、その子供のハルミ、そしてすずさんの三人で、父の病院へ出掛けていく場面には日付の字幕が出ない。この日は、不発弾を装った時限爆弾によって、ハルミが亡くなり、すずさんが右手を失った日なのだ。つまりこの日は、他の日と同じようにはカレンダーの中に並べることのできない、日付の秩序には収まらない(あるいは、歴史の外にある)、例外的な日だと言うことだろう。

例外はもう一つある。「7月28日 午前7時」、ザギを追いかけて空襲の只中に出てしまったすずさんが、彼女を庇うように覆いかぶさる周作に向かって「広島へ帰る」と宣言するのだが、次の場面で字幕は「その9日後」と出て、日付は示されない。「7月28日」の9日後とは20年の「8月6日」であり、広島に原爆が落とされた日だ。

この二つを例外にして、それ以外は、日刻みの日付字幕が敗戦の日まで続く。しかし、戦争が終わった後には、この日付字幕はいっさい出なくなる。つまりここでまた、時間のモードが変わったのだ。この作品の戦後の展開は、歴史=戦争によって奪われたものを、フィクションが少しずつ取り戻そうとしているパートだと言えると思う。

(追記。改めて確認したところ。これは間違いで、戦後も、「9月17日(台風による納屋倒壊、義父が海軍を辞める)」「10月6日(周作が海軍解体のために出張 すずが壊滅した遊郭跡を訪れる)」という日付字幕がつき、その後、「20年11月」と、月刻みの字幕に戻って終わる。)