2023/01/04

●『JLG/自画像』と『フレディ・ビュアシュへの手紙』を観た勢いで、『パッション』をDVDで久々に観た。ゴダールは常に騒々しくて落ち着きがなく、ガチャガゃしている。美しい音楽は気に障る騒音でしばしばかき消される。人々は騒がしく入り乱れ、その人々の騒ぎの流れすらも、頻繁に別の流れの挿入によって断ち切られる。ゴダールは、風景を撮ると過剰に美しく撮りすぎてしまうきらいがあるが、息を呑むような美しいショットが、落ち着きのないガチャガチャ世界の中に無造作に置かれる。美しさに対する鋭敏さとそっけなさとが同居しているというか、美に対して体がすっと反応して捉えてしまうが、その「捉えたもの」に対する執着はあまりない感じ。
ここでゴダールは、スタジオにセットを組んで、クレーンを用いて長回しのカットを撮るということを、嬉々としてやっているように見える。フィクション内の映画監督は、「光だがダメだ」「物語を見つけなければ」と言って苦悩し、撮影は行き詰まっているようだし、故郷のポーランドの情勢や残してきた家族が気がかりでもあるようだが(そんなことを言いつつも「現地」で二人——あるいは三人——の女性と仲良くしていたりするが)、長回しで撮られたショットをそのもの見ると、どこまでも楽しげにやっているようにしか見えない。そして、観ていてとても楽しい。
この、スタジオで撮られる長回しのショットは、『フレディ・ビュアシュへの手紙』にあった、ローザンヌの街を捉えるゆったりと移動していく展開性のあるパンニングの延長であり、発展形であるように思われる。
リップシンクしないことの自由。工場を不当解雇された女性について抗議するための集会の場面などで、音声(言葉やハモニカの音など)と画面とが一致していないところが何度かある。これは、意図的にズラしているというより、たんに一致していないという感じなのが面白い。勿論、意図的にズラしているのだが、「ズラすこと」そのものに意味があるというのではない感じ。音と映像とがシンクロしている状態が「普通」で、それに対して何か「意味のある別のこと」をしているのではなく、「シンクロしている状態」もまた、音と映像との様々なあり得る関係のうちの一つにしか過ぎず、本来はあり得る関係の全てが等価であるはずだ、ということこそを示しているズレだと思う。
●今年初めて買った本。