●『かつて明日が』(渡邉寿岳)をDVDで。これも池田将さんからいただいたDVDのなかの一つ。これはかなり面白かった(作家は85年、福島県生まれで、武蔵美の映像学科卒業と資料に書いてある)。ソニマージュがまだあまり洗練されてなかった『勝手に逃げろ/人生』や『フレディ・ビュアシュへの手紙』くらいの頃のゴーダルの粗っぽい感じを、さらにザラザラさせたような映像と音声のモンタージュによるテクスチャーが魅力的な作品。作品としては、まだまだ詰めが甘いところが所々みられるのだが(特に、ゴダールをそのまんまやっちゃってるようなところは、どうかと思う、それを「やりたい気持ち」はすごく分かるけど)、いくつかの場面では、息をのむような、というか、こちらの気持ちがかき立てられるような新鮮なイメージを、(カメラと録音機という人間の身体の外にあるものによってしか捉えられない)映像と音声との組み合わせによってつくりあげている。下手をすると、たんに物珍しい映像と音声のテクスチャー集みたいになりかねないのだが、そうは感じないところが面白い。その理由は何か。
おそらくこの作家は、ゴダールの『JLG/JLG』や『フレディ・ビュアシュへの手紙』、あるいは『映画史』などを観て、自分一人でも(登場人物がいなくても)映画はつくれる、と思ったのではないか(この映画には、人物が、作家本人と思われる男性と、あと女性が一人出て来るだけだ)。ただ、ゴダールの場合、最後の最後のところで人物(の顔=固有性)が作品(の意味)を、その最終審級のようなものとして支えているように思われる。世界のなかにバラバラに砕けて散ってしまうような映像(光や風景)と音声のテクスチャーは、それを統合し、その意味を最終的に引き受ける「人間の顔」の映像に集約されることで作品として成立している感じがある。それはゴダールという映画史上で特別な意味をもった固有名としてある自身の「顔」であったり、特別にうつくしい女性たち(アンナ・カリーナアンヌ・ヴィアゼムスキー、ミリアム・ルーセル等)の「顔」であったりする。ゴダールが「顔」に特に執着している映画作家であることは誰にでも明らかで、その「顔」はやはり「人間」の顔であり、作品の意味はその「人間」によって受けとめられることで確定される。ゴダールにとって「顔(顔のもつ固有性)」は、イーストヴッドにおける「聖痕」のように、そこからそれ以上意味を突き詰めてゆくことが不可能であるような、意味の最終到達地点であり、そこから意味がわき出してくる場所でもあり、有無を言わせぬ分析不可能な「顔-傷-人間」のもつ原-意味こそが、作品全体の意味を支えているように思われる。(ただ、『アワー・ミュージック』のオルガの顔だけは、ゴダール的な顔=固有性からこぼれ落ちた、たんなる匿名な「ある女の顔」として捉えられているように思う。しかし映画全体はゴダール自身の顔によって裏打ちされているのだが。)
『かつて明日が』が面白いのは、あきらかにゴダール的なソニマージュに影響されていながら、そこには意味を引き受けてくれる最終審級としての「顔」がきわめて希薄で、「顔」なしで作品を作品として成立させようとしているところだと思う(出て来る人物はまるで幽霊のように、たんに「人物」である)。それが充分に成功しているかどうかはともかく、この作品の映像と音声のテクスチャーの、ゴダールのそれとはあきらかに触感が異なる直接的な粗々しさは、どちらかというとリンチの『インランド・エンパイア』のもつ触感に近いように思われる。おそらくリンチもまた、ゴダールとはまったく違った意味で「顔」の映画作家なのだが、ゴダールのように顔が意味の最終審級を引き受けるのではなく、そもそもその「顔=固有性、同一性」が成り立たない、崩れてしまう、というところから出発するのだ。顔=人間(他者)への信頼が「意味」の確定を引き受けてくれない世界とは、簡単に言えば狂気の世界であり、そこでは認識も生も成り立たなくなる。しかしリンチの映画は、世界が根本から崩壊してしまって、まるで成り立っていないというようなものではない。そこには、今のぼくには何とは明確に言い切ることはできないが、「顔」とは別のなにかしらの原理によって、その作品世界が、たんなる混沌ではない、ある(統合とは言えない別の「統合」によって)束ねられ、構築されている。リンチの面白さはこの点にこそあると思われる。
顔のないゴダールみたいな『かつて明日が』が、リンチの感触に近付いてゆくというのは、このような理由からだと思われる。それは顔=固有性=人間の世界(ヨーロッパ?)の外にあるのだが、それとは別の意味=原理で成り立つ「人間」の生きる世界への追求なのだと思う。そして、昨日書いた『そこにあるあいだ』(川部良太)で、一組の兄弟が二組の兄弟の役をやる、ということもまた、「顔=固有性」が(作品の、世界の)「意味」を引き受ける最終的な審級として成立しないところで、どのように世界を構築出来るのか、ということに関わっているように思われる。(それはおそらく、ロブ=グリエのイメージの増殖のような、余裕のある遊戯的な世界とはまた別のものだと思う。)今のぼくにはたぶん、こういうことがすごく面白い。
●昨日、明け方まで起きていたのに、朝八時過ぎくらいに玄関の扉を叩く音で起こされる。電気料金の集金。わざわざ来てもらって悪いんだけど、ここには現金はないんだ。二、三日ちゅうに東京電力の窓口にまで払いに行きますということで帰っていただいた。日曜の朝から働いていて大変だなあと思うが、一人暮らしの人は、土日の午前中とかじゃないとつかまらないのだろう。もう一度寝ようと思ったが眠れず、今日一日、寝不足で頭も目蓋も重たくて、ずっとぼんやりな感じ。最近、まるで中小企業の社長になったみたいに、常に金策に追われてる気がする。今日じゅうになんとかしないと、明日、手形落ちますよ、とかで、なんとかなってよかったと一時ホッとしても、そのなんとかは一週間ももたない、みたいな。貯金がなく、今している仕事の報酬がいつ入って来るのか分からず、その間をどうしのいでてゆけばいいの、みたいなことばかりだ。まとまったことをしたり考えたりとか、全然できてない。大学出てからずっと貧乏なので、お金がないことには慣れていて、たいして苦にもならないのだが、こんな次々に追いつめられることは今までなかった。