●『MOTHER』(楳図かずお)をDVDで観た。まず、二つのことを思った。(1)「顔」の重要性。(2)世界の原理としてのトラウマ。(1)は、この作品を表現として支え、(2)は、この作品の構造(世界観)を支える、と思う。
この映画に「楳図作品」という刻印を捺しているのは何と言っても真行寺君枝の顔だろう。たんに、楳図漫画から抜け出てきたような顔というだけでなく、表現としての顔の強さやあり様が、楳図漫画の顔と同等であるということだと思う。
例えば楳図原作の別の映画『おろち』(鶴田法男)もまた、物語としては「顔(顔の美醜)」が重要な主題の一つとなっていた。しかし、映画作品として、というか表現としては、顔が決定的に重要だというものにはなっていない。姉妹の役が、木村佳乃と中越典子によって演じられることが絶対に動かせないということではない。『おろち』で重要なのはむしろ、姉と妹との関係であり、人格入れ替えの可能性/不可能性という方だろう(だから「顔」が決定的でないことには作品としての必然性がある)。対して『MOTHER』では、真行寺君枝の顔がなければ、この作品は成立しないというか、「このような表現」としては成立せず、その場合、違った作品として組み立て直されなければならなかっただろうという意味で、「この顔」が決定的な表現の要素としてある。
(この役、この演技、ではなく、この顔、が決定的な表現の要素となるという意味ではリンチに似ているかも。)
トラウマについて。楳図作品においてトラウマは決定的に重要だと思うが、それは心理的な問題というより世界の原理であるようだ。それは例えば、『わたしは真悟』で、送り手も受け手も消失してしまった世界のなかで、ただ「わたしはあなたを愛しています」というメッセージ(というか文字)だけが自動的に循環しているようなイメージだ。
主人公にとってのトラウマは母親であり、母親にとってのトラウマは(自分を無理やり犯した)最初の男性であろう。そして、母親にとって、トラウマと自分の息子が重なった時、トラウマは閉じて循環し(母→息子→母→息子)、呪いとなる。この、構造としての呪いの循環の強度を支えるエンジンとなり燃料となるものが、表現としての「顔」の強さだと思う。
このような呪いの循環から外れる別の力として、別の顔が二つある。一つは、主人公に取材して本をつくろうとしている若い女性編集者(舞羽美海)で、この人は楳図的な顔とは違っているように思われる。もう一つは、映画のなかに直接引用される、楳図自身によって描かれた(おそらく)「おろち」の顔の画像。
だが、女性編集者の方は「顔」としての強い表現はない(顔の印象が強く残るような演出はされない)。母が顔によって作品世界を支配しようとするのに対し、女性編集者は行動によって世界を探索する。彼女は、力と顔をもたない「おろち」であるかのようだ。
そして、終盤に唐突に、「おろち」の顔が、まさに描かれたた絵として引用され、登場する。実写映像として、映画作品の表現を支える真行寺君枝の「顔」に拮抗するものとして、楳図かずおは、自ら描いた漫画の「顔」を対置する。
●あと、この映画では楳図自身の家(吉祥寺にある方ではなく、高尾にある方)がロケに使われていた。ぼくは大学を出てから十年以上、高尾にアトリエをもっていて、アトリエに行く度に真っ黄色な楳図邸の前を通っていたのだが、あの黄色い家の内部の様子が初めて見られてうれしかった。赤と緑の皿は実際にあそこにあるのだろうか。
(高尾の楳図邸のすぐ向いには中学の校門があって、その斜面に咲くアジサイが、異常なくらい長く、鮮やかなままで咲いているという記憶がある。)