●『対称性人類学』(中沢新一)の最後の方に出てくる「原初的抑圧」というのはとても重要な概念で、カイエ・ソバージュ全巻を通じて、まさにこの抑圧にどのように抗することが可能なのかが探られているとも言える(精神分析は逆に、これを受け入れるところからはじまるのだと思う)。そしてこの「原初的抑圧」というものが具体的にどういうものであるかということ、そしてそれがどのように一神教と関係があるのかということを、樫村晴香楳図かずお論「Quid ?」はとても生々しく描いていると思う。
≪重要なのは、彼の短編世界で、女性はなぜあれほど美しく、その美しさに男性は固執し、女性自身もまた異様に執着するか、ということだ。
美しい女性は異界に属し、あるいは既に死んでいる。異様な美貌は、日の出と共に怪異な物の怪となり、あるいは腐乱した死体となる。≫
≪死んでいるのは美しい女性なのか、それを前にした男性なのか? ここには異なった位相で受動化した二つの存在の、同士的な共犯がある。だが、美しい女性はあくまで被視体であり、客体であり、身体であり、だとすれば、真の恐怖である死は主体の側に到来し、死んでいるのは男性である。≫
≪美しい女性は日の出と共に溶融、腐乱し、自らの思いをとげることができない。抑止された欲望と、その効果としての敵意という、女性の側のヒステリー的構造が表層にある。だが、このありふれた怪異譚の手前にあり、隠れているのは、男性も思いをとげていない、ということだ。そしてこの不成就は、欲望の禁圧というヒステリー的位相ではなく、欲望そのものの未構成に由来する。男性は動くことができず、声を出すことができず、時間の外の永続する一瞬ともいうべき場所で、強制的に目を開かされ、自らの自由にならない欲望をもたされる。その欲望は能動的身体を欠き、現実的世界に帰属しない。≫
≪この静寂、恐怖、性的興奮の混然は、境界例の患者がしばしば語る、「私はひたすら恐ろしかったのに、気がつくと勃起しており、強制的に精液が抜き取られ、激しい苦痛を感じました」という体験に連続する。≫
≪(…)男性は、欲望の欺瞞や禁圧ではなく、欲望そのものの不能の中で、愛と人生を指弾するヒステリー的身体に、目を見開かされ、釘付けとなり、停止した時間と身体の中で剥奪される。剥奪する女性の身体が人生という欺瞞を指弾するとき、隷属する男性の視線が直面するのは、本質的には自らの誕生という、単なる性的外傷の彼方の、存在の最奥の外傷である。自らの生誕、自らの存在ほど、人間にとって、自らの意にならないものはない。その意にならないものが、外傷的視覚として到来し、その外傷的瞬間としてのみ、自らの存在が可能となる。≫
≪それゆえ美しい異界の女性たちが腐乱し始める瞬間にある死の現前とは、客体=身体の死である以上に、自らの意の許にはない自己の存在の発生の現場であり、時間の中に登記されず、操作不能な情景として留まり、不在からの出口であると共に死への入り口として停止した、外傷としての自らの誕生の現前である。そして存在のこの視覚的、外傷的、瞬間的な局面は、たとえ能動的、象徴的に時間の中に登記されようと、結局の所は自らの意のままになどなりはしない、自己の存在、あるいは人類という出来事、『14歳』で仮借なく描かれている人類の生誕と滅亡の、恐怖症的な隠喩とも言えるだろう。怪異な女性たちの語るヒステリー的な敵意と悲痛は、自己の存在に直面させられ、それに対し為す術のない、主体・男性の側の悲痛の代弁であり、翻訳である。≫
楳図かずおの作品に登場する美しい女性たちは、世界の外に立ち、愛の、男性の、人生の、世界の欺瞞を、繰り返しヒステリー的に糾弾しつづける。そして男性は、そのような美しい女性に恐怖症的に釘づけになり、そのため世界の内で能動性を発揮するための身体の構成が不可能となり、世界の手前(自分と世界とが分離するその瞬間)にとどまる。このような男女の共犯による作品構造が、「生誕」という外傷的瞬間の隠喩となり、我々を何度もその場へと回帰させる。この、生誕という外傷への固着が、例えば「マッツェーリは人間であり、オオカミである」というような輪廻(対称性無意識)の作動を停止させ、この現実、この自我へ拘泥と、このわたしの死の恐怖の定位とが発動する。このメカニズムを、楳図かずおの打ち立てた特異な一神教とする。ここで書かれていることをおおざっぱに要約すればそういうことになるだろう。
ここで描かれる、「生誕という外傷への恐怖症的な固着」が、中沢新一のいう「原初的抑圧」の具体的なイメージとして、とても適当なのではないだろうか。
≪もし人が「私は何か」を自我の意味へと去勢せず、しかもそれをあくまで言語と意識の中に留めおくなら、神話が再来し輪廻が始まることになるだろう。≫
≪声と言葉の場所で視覚を用い、幼児的多形倒錯をスキゾフレニックに利用すること。日本の優れた漫画家たちは、楳図かずおを数少ない例外として、何らかの形でこの近傍に世界を作り、読者を迎え、慰安を与える。それは本質的に、多神教的世界が人々を迎え、死を遠ざけるやり方だ。一神教創始者たちは、この飛躍、すなわち意識と存在への、視覚と動物化のこの流用を、侮蔑、嫌悪、拒絶した。≫