●引用、メモ。帰って来られないことについて。そういえば、『漂流教室』(楳図かずお)の子供たちも、未来に行ったきりで帰って来られなかったのだった。楳図かずおの作品は、決して帰ってこられない場所へ連れていかれることと、そのような場所においてさえ外傷を保持しつづけようとすること(ある、同一性の内に留まろうとすること)との軋轢を、その力の源泉としているかのようだ(不可避の変容−変容の拒絶という力の拮抗が、変身への恐怖、あるいは、存在への郷愁という作品の意味=感触を生む)。河本英夫「病と経験の可能性」(「SITE/ZERO ZERO/SITE」(1))より。
《現に成立している現実以外に、異なる現実があるということを理論的に認めるだけであるならば、誰にとっても困難はない。パラレルワールド、可能世界、多次元世界のような言葉は、ある共通の特質を備えている。理論的な視点の位置から、別様である世界を捉えているだけであって、その異なる世界に行ったことは誰であれ一度もないのである。異なる世界に行くというのは、帰ろうと思っても帰ることが出来ず、実は行ってみようと思っても、それだけでは行くことがてぎないことである。異なる世界がありうることを理論的に知ることと、体験的に行ってみるということは、類似しているように見えながら、実はなんの接点もない。》
《経験の可能性の拡張を視野に入れ、新たな経験へとみずからを形成していく際には、およそ予期できず、予想できない局面に入りこむよりほかない。予期や予想は、意識の働きに基づいているため、意識がそれとして意識でありつづけることの限界の幅のなかにある。この限界の先へと踏み出し、経験の可能性を拡張していくための手掛かりが、今の私には、三つある。芸術と、修行を含む宗教(主として、曹洞宗系の座禅)と、疾病である。哲学や思想は、拡張された経験を可能な限り明確に語るための貴重な手段だが、経験の可能性の拡張そのものには役に立たない。》
●引用の後者について多少の疑問を付け加えるとすれば、確かに哲学や思想(の言葉)が「後から来る」ものであるとしても、しかし、言葉は、後から来ることによって事前のものの意味を変質させるという力をもつのではないか、という点だ。事後的にやって来る言葉の力が、事前の経験の質を遡行的に構成し直し、変容させる。言葉の最大の力は、明晰な分析−記述(認識)にあるというよりも、このタイムマシン的な過去への波及力にこそあるのではないか(勿論、過去を変えるということは現在を変えるということだ)。そうである限り、(時に最悪の暴力であり得る)このような言葉の力を軽くみることは出来ない。
●《異なる世界に行くというのは、帰ろうと思っても帰ることが出来ず、実は行ってみようと思っても、それだけでは行くことがてぎないことである》という点が重要であることを確認したい。経験の変質は、それが望まれて、意識的になされるものではない。つまり、帰って来られないだけでなく、行こうと思って行けるものではない。望んでもいないのに強引に連れ去られる者と、望んでも行くことの出来ない者とがいる。
『漂流教室』の子供たちは望みもしない世界へと連れ去られ、子供を思う母は、その世界へ行きたくても行くことが出来ない。子と母とは、テレパシーで繋がりながらも、その間には大きな断絶がある。しかし逆にいえば、決して越えられない断絶がありながらも、テレパシーでは繋がっている。そもそも、テレパシーによる交感−交換がなければ、母は子との「断絶」さえ知ることが出来ない(母から見れば、子はたんに消滅している)。ぼくはこの点について考えたい。