2021-11-12

東工大の講義は22日まであるのだが、そのすぐ後、25日に佐々木敦さん、山本浩貴さんとのトークがある。

scool.jp

講義が終わってから準備したのでは間に合わないので、(講義の準備に追われているのだが)トークの準備も少しずつしておく必要がある。で、評判の「無断と土」(鈴木一平+山本浩貴)をようやく読み始めたのだが(本当に最初の方をちらっと読んだだけだが)、出だしからいきなりすごい。「0 はじめに:音・喩・恐怖」で、荒川+ギンズの仕事と恐怖を絡めて記述してある部分は、ぼくが今まで読んだことのある荒川+ギンズにかんするテキスト、恐怖にかんするテキストのなかでもっとも解像度が高く強い説得力のあると思えるものだった。荒川+ギンズが「懐かしさ」と呼び、デュシャンが「エロティシズム」と呼んだものは、普通は「恐怖」と呼ばれる。これにはすごく説得力がある。

(下に引用するテキストがいかにすごいことを言っているか。ぼくももう何年も何年も考えているようなことなのだが、それを、高い精度のままで、こんなにも凝縮された簡潔な形で整理できるものなのかと驚嘆した。)

《かように生物は、探索し知覚した情報から特定の世界とそこに存在する肉体(そこに接続した視覚や平衡感覚等)を構成=リプレイすることで、ようやくそこに降り立つ。二〇世紀末に荒川修作+マドリン・ギンズが〈建築する身体 Architectural Body〉という概念とともに行った議論の通り、その降り立ちが失敗した場合、肉体は激しい可能の洪水を前に、自らにとって不透明な肉体が自らの位置する座標から離れた場所で、しかも自らの肉体の感覚器官と一定程度連帯したかたちで多数存在しうるという圧を、強い質感とともに受ける。荒川+ギンズはそれを懐かしさとして認識し、また彼らの先行者であるマルセル・デュシャンはエロティシズムとして検討したが、多くの生物にとっては恐怖という情動が充てがわれることだろう。そこで恐怖とは、一方では感覚器官間のもつれ、誤認の物象化、知覚対象の唐突な変容の予感などとして経験され、また一方では、世界によるこの私の自由意志の収奪、(この私とは異なる場所に私があらわれるという意味での)分身の発見、(この私において異なる私が現れるという意味での)肉体の役者化=世界の上演化としてイメージされる。世界を単一に束ね得るような(主に視覚的な)宿が無く、不確かな(主に聴覚的な)ノイズばかりが由来も定まらず反響し、起こる世界の変容あるいは複数化。いずれの場合でも観測されるのは、表現主体における表現の生成過程を自らの自由意志のもとで測定しそこねた肉体が世界の側から強引に採掘する〈喩〉の型であり、感覚器官の連合をめぐる極めて叙情的なバグであり、多宇宙=可能世界そのものの歪な擬人化である。》