●『ロボティクス・ノーツ』を観ていてちょっと思う所があって、『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』を観直した。テクノロジーやネット環境に関する感覚(物語のなかでそれらがどのように機能し、どのような感覚や問題系を表現しているのか)が、『攻殻…』がつくられた95年くらいの頃と今とでは随分とかわってきているように感じられたから。実際、今までのところで『ロボティクス…』の面白さは、ぼくにとっては、主にポケコンと言われるネット端末と「居ル夫。」と呼ばれているアプリのあり様の面白さにある。
●『攻殻…』では、テクノロジーは身体を機械化して機能を拡張するという方向に向かっていて、これによって身体と機械とが物理的な境界を曖昧にするという形で「わたし」の自己同一性が揺らぐ。そして、多大な情報がネットワークで結ばれることで、そのネットワークの複雑性のなかから人格(魂のようなもの)が生まれる(非人称の人称化)と言う出来事が起きる。「わたし」は一方で、外から内へと侵入してくる機械-身体の境界の不分明化によって同一性を揺るがされ、もう一方では情報の人格(魂)化によって「内」そのものの意味が変質するという形でも、自らの唯一性を揺るがされている。
わたしの身体はどこまでわたしなのか、どの程度の、どのような記憶によってわたしはわたし足りえているのか(わたしは自身の記憶の真偽を問えるのか)。ここではテクノロジーはそのような存在をめぐる問いを表現するものとして使われる。主に、存在を巡る堂々巡りの自己言及へと収斂してゆく押井版『攻殻…』と、それを社会的な関係性へと拡散してゆこうとする神山版『攻殻…』では方向が逆向きだとはいえ、テクノロジーが身体の拡張につながり、ネットワークが集合知(非人称)の人格化へつながるという基本的な世界観は共有されているように思う。だが、このような傾向(方向性)では、この後、少なくともアニメにおいては目覚ましい展開はみられていないと言えると思う(例えば小説においては『屍者の帝国』などはその系列の発展形と言えるかもしれない)。
●『ロボティクス…』においては、テクノロジーやネット環境の物語上での機能の仕方はそれとは大きくことなっている。まず、舞台設定から大きくことなる。『攻殻…』では近未来の(おそらく)東京が既知(親しさ)と未知(疎遠さ)とが入り混じったエキゾチックな環境として想像され、造形されている。対して『ロボティクス…』における2019年の種子島は、現在のわれわれが種子島として知っている土地がほぼそのままトレースされている。未来はエキゾチックな時空ではなく、「ここ」となだらかに繋がっている場所である。「そこ」は「ここ」と細部において異なっているが、その時の「こことそこ違い」は「うちの学校と隣の学校との違い」とのアナロジーによって把握できる程度の違いとしてある。つまり未来は憧れられたり絶望されたりする位置にはない。しかし「そこ」に、「赤いオーロラが見える」という程度の異化によってフィクションであるという「しるしづけ」がなされることで距離がつくられてもいる。アニメがその舞台に、現実に存在する土地をほぼ忠実にトレースした設定を採用する流行がいつごろのどの作品からはじまったのかまではぼくには分からないが、SFアニメにおいてすらも、「未来」が想像力を(思考実験を)刺激するエキゾチックな異郷のような場所でなく、一見ここと地続きであるようで、実は繋がっていないという、パラレルワールド的な感触をもった場所として設定されるという変化は、作品そのものの感触に大きな変化をもたらすように思う。これはSFに限らず、実写ではないアニメが実際の土地を正確に取材して舞台とする時、その「取材した場所」に行くことは出来ても(そしてそれが作中の場所とそっくりであったとしても)、それはアニメのなかの「その場所」そのものではない(アニメの舞台はしょせん「描かれた」世界だ)。そのなかには二次元のキャラにならなければ入り込めない(しかし二次元化したアバター---並行世界の自分---としてなら入り込めるかもしれない)。この「並行世界」的な、近さと隔たりとが同時にあるような感触は、「フィクションの質」に大きな影響をおよぼす。
フィクションが、われわれの希望や欲望(あるいはその裏返し)の代償であるような「夢(悪夢)物語」の世界としてあるのでもなく、何かしらの真実や主張や現実認識を内に宿してそれを表す、図解や比喩や象徴や寓話としてあるでもなく、われわれが生きている世界と断絶していながらも並行して走行している(しかし相互作用は生じている)パラレルワールドのようなものとして出現するということ。たとえば、同じものの数を、一方では十進法で数え、もう一方では二進法で数えているような並行性としてのフィクション。これはけっこう凄いことではないだろうか。おそらくこのことが、ぼくが最近、アニメから強いリアリティを感じている理由なのではないかと思う。そしてフィクションがそのような機能として現れるそのあり方が、『攻殻…』的な存在への問いを別の形に書き換えているように、ぼくには思われる。
●『ロボティクス…』に出てくるポケコンと呼ばれる情報端末は、今、現実に存在するスマートフォンやタブレッド型端末とほとんどそっくりで、それが少しだけ発展したものであるようにしか見えない。それは決して、『攻殻…』の世界で造形されているような目新しい世界観を構成する細部とは言えない。それは、メールの送受信、テレビ電話での通話、ネットゲームの対戦、ツイぽ(劇中でツイッターに相当するもの)の閲覧と書き込み、動画の再生のような操作が可能で、GPSで位置情報を発信・受信していて、動画カメラを内蔵し、様々なアプリケーションを走行させることができる、ようだ(今まで観てきた物語からすると)。アプリ「居ル夫。」は、ポケコンに内蔵されたカメラがリアルタイムで捉えている画像に特定の加工をすることが可能で(例えば、今、映っている女の子の頭に画面内で猫耳を生えさせることが出来、それは現実の、カメラに映っている女の子の動きや感情に合わせて動く、とか)、同時に、GPSとの連動によってカメラに撮られている場所に埋め込まれているタグを読み取ることもできる(おそらく書き込むことも)。
●これは一見、ありふれた設定にも思われるが、『電脳コイル』の電脳メガネがより普通の形に変化したものだとも言える。電脳メガネは、『攻殻…』の義体と『ロボ…』のポケコンの中間にあるような感じだろう。義体では、サイボーグ化した身体に直接的に情報が流れ込み、身体的な感覚と近い(連続した)やり方で情報のやり取りや処理が行われる(身体は機械に取って代わられ一体化している)。だからこそ、電脳から脳への直接的ハッキングも起こる。『ロボ…』では、情報はあくまでポケコンのウインドウを通してやり取りされる(それは直接的な身体運動とは異なる、パソコンのキーボードやゲームのコントローラーを扱うような「別の身体性-操作性」を要求する)。『電脳…』では、メガネの取り外しは自由だが、視界を覆うメガネによって直接的な感覚、知覚にかなり近い経験が与えられる。よって、情報のやり取りも物理的な身体運動とかなり重なる形で行われる(イマーゴと呼ばれる特殊能力は『攻殻…』の義体にかなり近い)。
●仮に、通常の知覚からもたらされる自然情報と情報端末を通してもたらされる電脳情報という分け方で考えてみるが、『攻殻…』では両者は機械化された身体によって切れ目なく入り混じるのに対し、『ロボ…』では両者は取りあえずは切り離されたまま、場合によって一致したり分離したりしていて(この「一致したり分離したり」が面白い)、それらが多重操作される。『攻殻…』では、扱われている情報が多重化(現実/電脳)されるのみだが、『ロボ…』においては、情報を扱う身体(あるいは脳、あるいは作法、所作、世界)の方こそが多重化していると言える。だからここでは『攻殻…』とは別の存在論が作動している。『攻殻…』では、電脳情報が直接的に身体化されることを通して、存在の(不安の)問いへつながる。しかし『ロボ…』においては、電脳情報は「道具の操作」という媒介を間に一枚挟んで身体化される(それによって身体、あるいはゴーストと言ってもいいかもしれない、が、複数化される)。だから主人公は、物理的な身体としては種子島の高校に通う普通の学生であり、同時に、オンラインゲーム「キルバラ」の世界では、世界ランク五位という実力者でもあるという多層性を生きている(それに対し、例えば押井守の『アヴァロン』では、オンラインゲームにのめり込む主人公は現実世界ではリアリティを感じることが出来ずに無為に生きていて、「真の世界」を求めるようにしてゲームの深みへと突入してゆくので、多層性は作動しておらず、『攻殻…』と同様の存在論が支配する)。エレファント-マウス症候群という彼の病気もまた、彼が複数の時間を生きていることを示す。『電脳…』はその中間であり、テクノロジーは存在の問いというほどには求心化されず、だが並行世界的な多層性とも異なっていて、子供の幻想-遊戯的な二価的世界とうまく重なるように作用している。
●『ロボ…』のように、主人公が多層的な世界に生きていることと、そのようなフィクションがこの世界に対する並行世界であるかのように作用することとは関係があるように思われる。
ここで多層性とは(多重人格のような)まったく分離した複数の層によるものではない。多くの共通部分をもちつつ、しかしそれぞれ別の系、あるいは別のバリエーションとして走行しているようなイメージだ。例えば、あるアニメが実在するある土地を精密にトレースして舞台を設定したとする。その時、アニメと現実の土地は多くの共通性を持ちつつ、しかし互いに並列している(一方は二次元でありもう一方は三次元であるし)。だがこの時、すべての系は等しく互いが互いを映し合うバリエーションなのであって、オリジナル(現実)とバリエーション(仮想現実)があるのではない。現実の土地をトレースしたという意味ではアニメ作品の土地は現実の反映であるが、そもそもその土地をアニメ作品で知ったとするなら(「作品」を主体としてみるならば)、アニメの土地こそがオリジナルで現実の土地の方がその反映ということになる(それは、キャラクターと声優のどちらが「オリジナル」なのか、ということとも重なるように思う)。もし「現実(オリジナル)」があり得るとすれば、それは、それら複数の層が絡み合っている、その絡み方としてある。
『攻殻…』の場合、「わたし」は、身体の機械との互換性によって(交換不可能な部分が)限りなく縮小し、しかし同時に情報ネットワークへの接続によって、意識は限りなく拡張される。限りない縮小と拡張の間で「わたし」は領域や位置を失って、存在の不安へと陥る。
しかし、並行世界的な多層性のなかにある「わたし」は、並走する別の層の別のわたしとの関係(その共通とズレ)によって自らの位置を確認し、その別の層の「わたし」もまた「わたし」であるから、そちらもまたこちらの「わたし」との関係によって自らの位置を確認している。だから「わたし」とは、そのような複数の「わたし」たちの重なりとズレと分布であり、濃度の散らばりである。拡散でも縮小でもない。境界が確定されない曖昧な散らばり(それは拡散ではあるが、ある一定の範囲のなかでの拡散であり、ネットの広大さと同等の散らばりではない)として存在するような「わたし」となる。それは『攻殻…』とは別の存在論となる。