●ふと、『論理哲学論考』の一番最初に置かれた前提は成立しないのではないかと思った。「世界は成立していることがらの総体である」は、量子論以降、少なくとも「世界は成立し得ることがらの総体である」とする必要があるのではないか、と。別に、ヴィトゲンシュタイン批判をはじめようというような大それた話ではない(そもそもこれが「批判」になっているかどうかも分からないし)。でも、たんにこの二つの文を比べる時、一つ目の文から二つ目の文への移行は、われわれが日常的に感じているリアリティを根本から塗り替えるくらいの大きなものではないかと思う。
仮に、最初の文から二番目の文に「世界」の前提が移行したからといって、逆立ちして生活するようになるわけでもないし空を飛べるようになるわけではない。それによって貧乏人が金持ちになったりすることも、非モテがモテになったりすることも決してない。そのような意味では何も変わらない。しかし、まったく何も変わらないにもかかわらず、その変わらないものの中味ががらっと書き換えられてしまうというような形で起こる変化がある。相変わらず同じものを見て、同じような問題に悩まされ続けるのだが、それをまったく別物として受け取るしかなくなっている、というような。
(余談だけど、ぼくにとって芸術の問題――あるいは効果――はそのようなところにあるように思われる、それは、ものの見方を変えるというようなわかりやすい話ではなくて、どちらかというと「ボディスナッチャー」みたいなイメージで、ある人が、外見も立ち振る舞いもまったく変わっていないのに、いつの間にか宇宙人に乗っ取られているようにしか思えなくなる、みたいな感じ、見方がかわったわけではないのに、実感が入れ替わってしまっている、というような。)
●例えば、『物質のすべては光』(フランク・ウィルチェック)には、次のように書かれている(クォークは陽子や中性子を構成する素粒子で、グル―オンはそのような核子においてクォーク同士を結びつけている「強い力」を媒介する粒子)。
≪むしろそれ(クォークやグル―オン)は、正しく理解されたときに、物理的現実とはどのようなものなのかについての認識を一変するような存在と言える。というのも、クォークとグル―オンは、ビット(小片)はビットでもさらに一段深い、まったく別の意味を持つものであるからだ。すなわち、情報理論で言うところのビットと同じ意味を持っているのである。これは、科学において質的にまったく新しいものが現れたと言えるほどのことなのだ。クォークとグル―オンは具現化された概念なのである。≫≪グル―オンは、グル―オンの方程式に従うものなのだ。ここでは物質(イット)がビットそのものなのである≫。
クォークやグル―オンは「物質」の最小単位でありつつ、純粋な情報論的対象であり数学的な対象であるということが書かれている。言い換えれば、「物質」の最小単位は「形式」であると言っているようなものではないか。朝永振一郎は『素粒子は粒子であるのか』において、素粒子を電光掲示板で点滅する光のようなものと喩えている。そこでは物質である素粒子そのものよりも「場」の力こそが支配する。
≪それは粒子であるといっても、電光ニュースの上の光の点のような意味のものである。≫
素粒子論において、電光板の役目をするものは、いわゆる場である。素粒子とは電光ニュースの上に現われる光点のように場に起こる状態の変化として現れるものである。この状態の変化を支配する法則は場の方程式といわれる数学の形で表される。空間のなかにはいろいろな場が存在していて、その各々の場にはそれぞれ異なった素粒子が現れる。≫
●『物質のすべては光』ではさらに、そのようなクォーク(反クォーク)とグル―オンによって構成される陽子について、次のように書かれている。それらは確率的であり、しかし同時に、厳密に同一でもあるものなのだ、と。
≪さて、陽子の内部が、あなたがこれまで見たことのあるものに、あるいは、見ることのできる何ものにも似ても似つかないのは言うまでもない。≫
≪陽子の内部について観察されたどんな基本的なことを記述するにも、量子力学が絶対に大切だということは強調しておかねばならない。とりわけ、アインシュタインも苦しめられた不確定性という有名な性質が量子力学にはあるが、これがまず正面に立ちはだかる。厳密に同じ条件で陽子のスナップショットを数枚撮影したしても、撮影されたものはそれぞれ違う。≫
≪現象のなかに、そして、それを記述する量子論のなかに、無数の異なる可能性が共存しているということは、伝統的な論理とは相容れない。量子論が現実(リアリティー)を説明するのに成功したということは、「あることが『真』なら、その逆は『偽』である」という排中律に基づいた古典的な論理が乗り越えられ、ある意味、その座を奪われたことを意味する。≫
≪たとえば、陽子とは何かについて、一見矛盾する次のような二つの描像を和解させることができる。一つには、陽子の内部は、ものが変化し、動きまわっているダイナミックな場所である。だがその一方で、いかなる場所、いかなる時間に存在するどの陽子も、まったく同じ振舞いをする(つまり、どの陽子も、すべて確率が同じである)。≫
≪どうしてすべての陽子が同一なのか、その理由をここで説明しよう。陽子内部の個々の可能性Aはすべて、時が経過すると、新しい別の可能性へと変化する。その新しい可能性をBと名付けよう。だがその一方で、また別の可能性Cが変化してAになる。したがってAはなおもそこに存在する。新しいコピーが、古いものに置き換えられたのだ。そして、全体を見れば、個々の可能性はそれぞれ変化するが、可能性すべての分布はまったく変化しないのである。≫