●ゲームのことは何も知らないのだけど……。
量子人狼というゲームがあるらしい。そもそも元になっている「人狼」というゲームをほとんど知らないのだが、複数の人たちでプレイするゲームで、それぞれの人に役割があるのだけど、自分以外の人がどの役割において行動しているのか知らない状態で、各自が推理をし、その場において自分が有利となると思われる行動を選択するゲームだという。
それが量子人狼になると、自分の役割すら確率的にしか与えられないのだという。そういう状態で行動する。しかも、その日の自分や他人たちの行動によって、役割の確率分布が日々変化するという。自分が何者であったのかは、自分の死が確定するか(すでに死んでいる確率というのもあって日々変化するという)、またはゲームが終了(収束)するまで分からない。終わってみれば、自分はすでに死んでいた、ということさえあるという。
あるいは、量子将棋というのもあるらしい。ゲームが始まる時点では、すべての駒が等しくどの駒にもなれる可能性を持ち、ある駒が実際にどう動いたか(どう動かしたか)によって、その駒の役割が制限され(例えば斜めに二マス動かせばその駒は「角」に確定されるが、前に一マス動かすだけならば、その駒は、歩・飛車・香車金・銀・玉であるすべての可能性をもつ)、それは他のすべての駒の役割も制限する(例えばある駒が「飛車」だと確定すれば、他の駒が飛車になる可能性はゼロになる)。どの駒が「王将」であるのかが、ゲームが進まないと確定されない、と。
どちらも、世界の大枠は予め決まっていて(村人と人狼の割合とか、歩が18枚で、香車、桂馬が4枚ずつで、飛車角が2枚ずつ…、という風に)、でも、誰がどの位置につくのかということは、各人がそれぞれ勝手に動いていくうちに、全体として決まってゆく。ここには、役割があらかじめ決まっていないという個の自由度と、しかし、ある個の行動が他のすべての個に影響しその可能性を制限し合うという強い場(フレーム)の拘束性との両方がある。これは、「役割が決まっている」ということとも、「個が自律(スタンドアローン)してあり得る」ということとも違って(どちらでもあり、どちらでもない)、そのどちらよりも我々が生きているこの世界の感じに近いという感触がある気がする。
(いや、ゲームはまったくやったことないです……)
とはいえ、現実のこの世界は、ゲームでは最初に与えられている「世界の大枠(制約する場)」そのものが、おそらく変動する。でも、そこまで行ってしまうと複雑すぎるというかとりとめがなくなって、それは世界の縮約としてのゲームではなく、たんに「もう一つの世界」になってしまうのかもしれないけど。
(ただ、ゲームには、新たなバリエーションが生まれたり、流行り廃りが生じたりもするのだろうから、それが「世界の大枠」が変化するということなのかもしれない。)
このようなゲームには、それぞれのプレイヤーの思惑とは別にところにあって、すべてのプレイヤーの動きを把握し、それを「世界の法則」と照らし合わせて計算することで各自に確率を分配してゆく、非人称的な計算主体のような存在が必要となるだろう(例えば将棋ならば、互いにルールを知っている者同士なら将棋盤がなくても対戦できるだろうが、量子将棋はそのためのプログラムを走らせたコンピュータがないとちょっと無理だろう)。現実の世界では、計算主体は「世界そのもの」ということなのだろうけど、このようなゲームにおいて、そのような「世界の地」としてのアルゴリズム実行者の存在(それは可視化されたルール以上に強力なものだ)が、強く意識されるようになるのではないか。
●以下、それぞれの説明。
量子人狼について。
http://jinrou.uhyohyo.net/manual/quantumwerewolf
量子将棋とは。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%B0%86%E6%A3%8B
大流行のゲーム「人狼」を超ていねいに解説してみた。
http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20130416/E1366050514238.html