●来週、佐々木敦さんが映画美学校で開講している「批評家養成ギプス」という二十回連続講座のうちの一回でゲスト講師として話しをすることになっている。ゲスト講師は、自分の書いたテキストを一つ指定して、受講生は事前にそれを読んでくるということになっていて、ぼくは今年の「新潮」五月号に掲載された福永信論「マイナス一、プラス一」を指定した。これを書いた時には、「よくここまで書けたな、自分」という手応えがあったし、「作品」というものに対するぼくの考えが割合はっきり出ているものでもあるように思えたから。
でも、書いたのはずいぶん前だし(書いたのは掲載される一年以上前だった)、細かいところではどんなことを書いたがほとんど忘れてしまっているので、改めて読み返してみたら、自分で言うのもなんだけどとても面白かった。自分が面白いと思ったことを書いてそれを自分で読んでいるのだから面白いのは当然とも言えるけど、改めて、「よくここまで書けたな、自分」と思った。
それでその勢いで、柴崎友香論、中上健次論、大江健三郎論、角田光代論とつづけて、ここ二年くらいで自分が小説について書いたある程度まとまったテキストを、いろんな雑誌を引っ張り出しては読んでゆくことになった。細かいところでは直したいと思った部分や不満もあるけど、だいたいのところ面白かったのでちょっとほっとした。一度印刷されて形になった自分の文章を読み返すのにはけっこうな心理的抵抗が働くし、ぼくはいつも目先の関心の方に引っ張られてしまうので書きっぱなしになりがちだし、自分がどういうことを書いていたのか普段は忘れているので、こういう機会にまとめて読み返せて、そして、思っていたよりも面白くて(少なくとも途中でうんざりしなくて)よかった。
ただ、(これはある程度自覚してもいるけど)自分が興味や関心を示すものの「範囲の狭さ」ということも同時に感じた。目先の関心に引っ張られがちと言いつつ、結果としてほとんどいつも同じようなことばかり考えている。(例えば、柴崎論「わたしは知りたかった」は、『人はある日とつぜん小説家になる』に入っている岡田利規論に書いていることとほぼ同一の関心事を、逆方向に向けたカメラから捉えているような感じになっているように読めた、とか。)
●どんな話をすればよいか考えるつもりだったのに、自分の書いたものを読むだけで一日終わってしまった。