佐々木敦さんのやっている「批評家養成ギブス」で話しをするために渋谷の映画美学校へ。その前に、渋東シネタワーにある喫茶店で文芸誌の編集者と会う。要件は手短に済んで、あと一時間くらい、ほぼアニメの話を(アニメを観ない編集者に向かって)した。そして映画美学校に行き、講義がはじまるまでの時間、佐々木さんとアニメの話をした。自分が今どれだけアニメにはまっているのか自覚した。
●人前で、一人で喋るのは、尾道のなかた美術館のレクチャーと今回とで二度目なのだが、どうしても、用意していったことをただ単調にダーッと話すことで精いっぱいという感じになってしまう。
●必ずしもちゃんと整理されているわけではない形で、最近の自分の関心事についてゆるい関連のなかでいろんな話をしたと思うのだけど、大きくまとめると、量子論的な並行世界という「フィクション」のリアリティの話だったように思う。例えばドイッチュが『世界の究極理論は存在するか』で書いているようなことは、物理学という文脈の必然性のなかで、そこにある諸問題を解決するために有効である解の一つとして考え出されたものだけど、それを(物理学上の諸問題を理解していない)ぼくが読むとき、そこで出された「結果」を、フィクションとしてリアルであるかどうかという点から読むことになる。あるいは、そのようなフィクションを仮に、因果関係を記述するルールとして受け入れた時に、「現実」(と、とりあえず認識するもの)が、どのように違ってみえてくるのかということが問題となる。
たとえば、『世界の…』のP177〜180に書かれている、量子論的多宇宙論の立場からの「複雑系バタフライ効果)の否定」から読み取れるのは、決定論や因果関係の支配のより徹底した否定だろう。バタフライ効果とは要するに、物事を詳細にみていけば、我々が客観的な因果関係だと思っていることは実はとても粗い精度しかもたないもので、そこをもっと細かくみていくと決定論因果律も揺らいでしまうというようなことだ(と、ドイッチュは記述している)。しかしそれは決定論を完全に否定することにはならない(それは未だ古典物理学に従っている、と)。バタフライ効果が示しているのは、計算が困難であるということであって、それは計算が不能であるということとは異なる。だけど、量子論的並行世界が示しているのは、より徹底した(というか、原理的、根本的な)決定論の否定であり、それは我々が「因果関係」と考えているものの根本ルールの、徹底した書き換えを要請するものなのだ、と。
だから、そのような「因果関係を構築するルール」の根本的な書き換えをもし受け入れるとすれば、表面上の絵柄としてはまったく同じ「現実」が、その「内実」を別のものに書き換えられてしまうということが起きる。自分がずっと住んでいた家が、実は自分が知っていたのとはまったく別の素材と設計図で組み立てられていた、というような。あるいは前に書いたように、『ボディスナッチャー』的に、外見も立ち振る舞いもまったく変わらないのに、その人がいつの間にか宇宙人と入れ替わってしまったようにしか「実感」されない、というような事態が生じる。つまり、フィクション(の組成)の書き換えは、世界の「地」に作用するのだということ。フィクションにおいて重要なのは、図(物語)の書き換えではなく、図を成立させている地にまで作用してしまうというところにある。
●そしてそのことと、ぼくの最近のアニメへの傾倒はつながっているし、そして、それはマティスの絵画とも繋がっている、というような話をしたつもり。