⚫︎お知らせ。noteに「わたし・小説・フィクション/『ビリジアン』(柴崎友香)といくつかの「わたし」たち」というテキストを公開しました。2017年「早稲田文学」の「作られゆく現実の先で・ポスト真実/人工知能時代のフィクションをめぐって」という特集号に掲載されたものです。22000字以上あって少し長めですが、今まで自分が書いたテキストの中でも、これはぜひ読んでもらいたいと思っているものの一つです。そして、『ビリジアン』がいかにすごい小説であるかということは、繰り返し何度でも確認されるべきだと思います。
もし、上のテキストに興味を持ってもらえたのならば、「「幽体離脱の芸術論」への助走/メディウムスペシフィックではないフォーマリズムへ向けて」も読んでもらえると嬉しいです。
⚫︎「批評空間」の「モダニズムのハードコア」は、第一の意味として、グリーンバーグからフリード、クラウスに至る、アメリカのフォーマリズムの議論を明確に示すということがあっただろう。当時、グリーンバーグの翻訳さえほとんどなかったし、そのような状況で特定の批評家があたかもグリーンバーグの代行者であるかの如く振る舞っていた。
しかし今では、一冊だけとはいえグリーンバーグの批評選集が日本語で読めるし、クラウスの主な著書は翻訳されている。フリードの「芸術と客体性」は今でもなおここでしか読めないことは問題だが、第一の意味ではほぼ役割を終えていると言ってもいいと思う。
重要なのは第二の意味で、それは、グリーンバーグから発するフォーマリズムの議論に、別の文脈にあったコーリン・ロウの議論(虚の透明性)を、批判的視点としてクロスさせているところだ。この独創は岡﨑乾二郎によるアイデアだと思われるが、このことこそが「モダニズムのハードコア」の持つ固有の意義であると思われる。そしてこの第二の点は今でもなお有効というか、今こそより重要となっているとぼくは考えている。