⚫︎図と地は不可分であろう。図が決まれば地が決まってしまうし、地が決まれば図のありよう(可能な図の範囲)も決まってしまう。だから、「図と地の構造」を支えている、さらにもう一つ背後にある〔「図と地の構造」の地〕が問題である。おそらく荒川+ギンズが問題にしているのはここだ。
(追記。図を物、地を物が存在できるための空間だと考えると)CGでは、三次元の座標で表現できる形はなんでも作れるとする。だが問題なのは、そこでどのような形を作るのかではなく、三つの軸で空間を表現するという、そのあり方の方なのだ。それは、四次元にすれば良いということではない。次元の数はいくらでも増やせるが、空間を複数の軸によって表現するという、(「地」の)そのあり方そのものが問われなくてはならない。
(追記。そのために、「複数の次元の軸で空間を表現する」ということが成立するための前提条件が、そもそも疑われないといけないし、その前提条件を変えようとしなければならない。)
(その意味で数学的な四次元には特に謎はない。だから、20世紀の芸術家たちが問題にした「四次元」は、数学的なそれとは別のものだと考えるべきだと思う。)
荒川+ギンズなら下らないと言うかもしれないが、しかし、セザンヌはセザンヌで〔「図と地の構造」の地〕を問題としているし、マティスはマティスで〔「図と地の構造」の地〕を問題としている。つまり、セザンヌのスタイルは「図と地の構造」のレベルで作られているのではなく〔「図と地の構造」の地〕のレベルで作られているし、マティスのスタイルもまた〔「図と地の構造」の地〕のレベルで作られている、と言えるのではないか。
ただ、おそらく荒川+ギンズはそれだけでは満足せず、(〔「図と地の構造」の地〕のレベルで立ち上がった)セザンヌが、いつの間にか(〔「図と地の構造」の地〕のレベルで)マティスになってしまい、そのマティスがまた、いつの間にかジャコメッティになってしまうといったレベルでの、その都度で立ち上がる自己の変質が目指されていると思われる。〔「図と地の構造」の地〕のレベルで立ち上がった固有のスタイルが、運命のようにある個(ある生)において固定してしまうのではなく、そのレベルで何度も生まれ直すことができることが目指されているように思う。
【Part1】小林康夫×難波英夫「荒川修作の声が聴こえる!」(日本語字幕付き) - YouTube
【Part2】小林康夫×難波英夫「荒川修作の声が聴こえる!」(日本語字幕付き) - YouTube