●一昨日の日記に書いた、「芸術の効果は「ボディスナッチャー」のようなものだ」ということは、けっこうおもしろいんじゃないかと思う。見掛けや見方はまったく変わっていないのに、実感だけが入れ替わってしまう、ということ。これは、おとといも引用した『物質のすべては光』(フランク・ウィルチェック)の次の部分から思いついた。
≪どうしてすべての陽子が同一なのか、その理由をここで説明しよう。陽子内部の個々の可能性Aはすべて、時が経過すると、新しい別の可能性へと変化する。その新しい可能性をBと名付けよう。だがその一方で、また別の可能性Cが変化してAになる。したがってAはなおもそこに存在する。新しいコピーが、古いものに置き換えられたのだ。そして、全体を見れば、個々の可能性はそれぞれ変化するが、可能性すべての分布はまったく変化しないのである。それは淀みなく流れている川のようなもので、どの水滴もと留まることなく流れているのに、全体としてはいつもまったく同じに見えている。≫
●また、この本では、「対称性」という概念を「差異なき区別」と説明している。差異はないけど区別はあるというのが、すごく面白い。例えば、正三角形を百二十度(または二百四十度)回転させたとする。回転前と回転後の二つの三角形は同一であり(不等辺三角形ならば、回転させて形を保存することはできない)、その間に「差異」はまったくない。しかし、一方が回転前でもう一方は回転後であるという「区別」はある、というような。この時、「区別」というのは一体何なのか、「誰が」区別するというのか、と考えてゆくことも出来る。
(ここで「差異がまったくない」と言えるのは、それが数学的対象であって「物」ではないからなのだけど、つまりそれは、素粒子がもはや物ではなく数学的対象であるということだろう。)