●『大栗先生の超弦理論入門』(大栗博司)という本に、≪先日も、トヨタ自動車の役員会で「重力とは何か」についてお話したときに、「素粒子の研究者が『わかった』というときは、どういう意味で言っているのでしょうか」と聞かれました≫と書かれていた。
例えば、「ヒッグス粒子が発見された」と言っても、ヒッグス粒子が目に見えるわけではないし、ヒッグス粒子それ自身が検出器にかかったわけでもないという。実際に検出されるのは、ヒッグス粒子が崩壊した時にでてくるとされる光子やW粒子などで、それらは既にその存在が知られているものでしかないという。では何故、それで「ヒッグス粒子が発見された」ことになるのか。
≪素粒子の標準模型では、ヒッグス粒子の予言以外はほとんどすべてが検証されているので、
(1)標準模型にヒッグス粒子があった場合に、陽子どうしの衝突からどれだけの光子ができるのか。
(2)標準模型の計算で、ヒッグス粒子の効果を無視したときに、どれだけ光子ができるのか。
を別々に計算して、その結果を実験で測定された光子の数と比較したところ、(1)の計算が正しい確率が圧倒的に高いと判定されたのです。
標準模型の計算理論、数千人の研究者や技術者が参加する大規模かつ精密な実験、さらにスーパーコンピュータを使ったデータ解析を経て、ようやく「ヒッグス粒子が見つかった」と言うことができるのです。自分で充電したプリウスPHVを、自分で運転してみて「二〇キロメートル以上走れることがわかった」と言うのとは、納得度が違うのはしかたのないことです。≫
あえて素朴な言い方をすれば、これは「物的証拠」というより「状況証拠」であって、「ヒッグス素粒子が見つかった」というより、外堀を埋めた結果「ヒッグス粒子が無いと考えることは難しい、と言えるようになった」ということだろう。とはいえ、こういうやり方でしか検証することが不可能な領域にまで科学が達しているということでもある。つまりこれは、人が持ち得る最先端の技術と、人類で最も頭のよい人たちと、今ある最も高度なコンピュータによる計算と、今までに蓄積された理論とを照らし合わせて、綿密にその整合性を検証した結果、矛盾はないと判定された推論ということだろう。それは、顕微鏡を覗いたらほんとに細菌が見えた、みたいな納得の仕方とはまったく違う。
(しかし、科学とははじめからそういうもので、データの信頼性と理論の無矛盾性が、専門家集団による査定に耐えうるものであることによって正統性が得られるというものだから、「専門家集団のお墨付き」なしに、自分の五感‐実感で、あるいは「自分なりの整合性‐合理性」によって、勝手に「発見する(実証する)」ことは許されていない。だから、プリウスに実際に乗ってみて「おー、ほんとに二〇キロ以上走ったよ」という意味での実証---納得---と科学とは、はじめから違うものだったのかもしれないけど。ただ、科学だけではなく工学ということを含めて考えると、またずいぶん違ってくるとは思うけど。)
我々は実証という言葉を曖昧に使うわけだけど、このような時、実証と「考えられる限り最も厳密な推論」はほぼ同じものとなる。というか、むしろ「考えられる限り最も厳密な推論」の方が「(自然言語であることによる曖昧さを残す)実証」よりもはるかに厳密で確実であったりするという事態が、素粒子物理学においては実際に成立してしまっている。言ってみれば、「物的証拠」よりも「状況証拠」の方が(物より、情報と計算の方が、とも言えるかもしれない)ずっとずっと厳密であり確実であり真実に近い、とでもいうような事態。
このような時に、我々の世界や物質に関するリアリティは逆転してしまう。例えば、顕微鏡やエックス線を使えば見える、あるいは、大型望遠鏡や宇宙船を飛ばして撮影された画像によって見えるようになるという時、それは我々が普通に「見る」という行為の道具を用いた延長であると言える。あるいは、本来見えないものを、ある種の画像処理によって見えるようにするということまで、そこに含めてもよいかもしれない。
しかし、ヒッグス粒子が「ある」と言う時、それはどのようにしても「見る」ことも「触れる」こともできなくて、推論や計算によってその存在が導き出されるだけだ。そんな幽霊みたいなものが本当に「ある」と言えるのか、とも感じられるけど、おそらくその推論や計算は、我々の身体における「見る」という行為の成立よりもずっとずっと高い精度で厳密で、曖昧さの入る余地がない整合性があるもので(人間の身体による見るという演算をはるかに超えた処理能力によって得られた整合性で)、要するに我々が実際に五感で感じる(納得する)ことができる「ある」よりもずっとずっと確実に(というか、「強い断定口調で」と言うべきか)「ある」とさえ言えるのだとしたら……。ここでは、「実在する」あるいは「納得する」ということに関するリアリティが別物へと変質せざるを得なくなる。
●このような世界で、我々人間はどうなってゆくのか、あるいは、「人間として」何ができるのかと考えると、途方に暮れる。