●両国のART TRACEで行われた、座談会「ブラック・マウンテン・カレッジ再考」を聞きにいく。ブラック・マウンテン・カレッジは、いわゆる「アメリカ的なもの」のもつ可能性の象徴のようなイメージとして憧れの感情をずっと持ってきたのだけど、それはある種の神話的なイメージであって、その詳しい内実は実はそんなにはよく知らない。この座談会では、BMCが成立する背景としてあるいくつかの文脈が示され、BMCという奇跡的な場が、それらの交錯として成立していたことが示されていたように思った。
まず、不況による大学教育の保守化と教員のパイの縮小があり、それによって職を失った教員によって自主的に運営される場として成立した(要するに、自分たちの職場を自分で作らなければならなかった)ということ。そして、その理念の根底には、デューイからくるアメリカ的なプラグマティズムの思想(実験的・目的を前提としないプロセス重視)があったこと。さらに、ナチの台頭によってヨーロッパから亡命してきた者たちがそこに合流したこと。また、19世紀のヨーロッパではアーティストたちによる芸術コロニーという運動がさかんに試みられたのだけど、20世紀になってそのような運動が下火になってくると、コロニーが「学校」という形へと変化していったということで、BMCにはそのような意味での芸術コロニー的な側面があること(隔絶されたような場所にあり、教員も学生も同じところに住んで、24時間密接にかかわっていた)など。
また、BMCには、一方でグリーンバーグ的なメディウムスペシフィックなモダニズムと、ヨーロッパ的なメディウム横断的なモダニズムという相反する要素が共存しており、またヨーロッパ由来のものとしても、バウハウス的なものと表現主義的なものも共存していた。共存していた、とはいっても、内部では常に小競り合いがあって、ごたごたしていたということ。
BMCは、大恐慌の後に成立し、50年代に入ってアメリカの経済が黄金期に入ったところで解散している。要するに、不況になって世の中が保守化すると、実験的だったり先鋭的だったりする人たちの居場所がなくなるから、そういう人たちは自分で場をつくらなければならなくなって、しかしそのような困難な状況だからこそ、多様な交流が可能となるような奇跡的な場が生まれ、しかしそのような場は常にゴタゴタしていて(対立や摩擦が絶えなくて)不安定でもある、と。
BMCは教育機関であるが、それは目的を前提としない。つまり、高名なアーティストや歴史的な傑作をつくるような人を生産する、というような目的があるのではなく、BMCのような場が成立し、そのような場によって可能になる生活の様式そのものを芸術の理念とするような場であった(そのような場から何が生まれるのかは事前には分からないからこそ「実験」である、と)。その意味で芸術コロニーに近い。
とはいえ、学生はそのような場を卒業してゆく。その後、例えば別の大学の大学院に進学しようとしても困難であった(BMCを「大学」と認めている大学は少数だった)という現実もある。ある時期以降は黒人の学生も受け入れていたが、実際には少なかった。それは、そこを卒業したとしても社会的には何の利得もない学校へ、貧しいうちの黒人が通うことなどはじめからできないから。そのような矛盾もあった。
●話をされた三人の人は皆大学の先生であり、当然、BMCを取り上げるということは現在の大学の状況が意識されており、それをどうすればいいのかという問題意識があるのだと思う。
これは、この座談会を聞きながら思いついた、あくまでほんの思いつきのレベルの話なのだけど、もしBMC的なものの可能性が現在の日本で考えられるとしたら、それは大学というより、例えばシェアハウスのようなものの方なのではないか、と。もし、今後、シェアハウスのような文化が定着し、洗練されて、近い世代だけでなく様々な世代の生活(共存と対立とあつれき)の場となり得るのならば、非常に局所的で分散されたBMCが、様々なころで現れては消える、ということもあり得るのではないか、と。すごくめんどくさそうな感じだけど。
松浦寿夫さんが、テクノロジーのユーティリティーの話をしていたけど、テクノロジーは一方で、その開発に極端な(お金や情報や才能の)集約を必要とし、しかし他方で、いったん実現したテクノロジーは制御不可能な形で勝手に分散して、勝手に利用されてゆくというイメージがある。大学という制度の利点はおそらく、その集約と拡散の両方の機能を同時に内包しているというところで、しかし集約とは要するに国家とか権力とか資本とかいうことが絡まないと不可能で、大学がこっちの方面(片輪)を切り落とすことはできないのではないかという気もする(ぼくは大学のことを全然知らないのだけど)。