●『バイロケーション』(安里麻理)をDVDで。
成程、という感じ。面白い!、という感じではないけど、あの、複雑で、冗長なところがあって、混乱も多々みられる原作を、重要な点を抽出した上ですごく上手く再構成してあるなあ、とは思った。あの原作を映画化して上手くゆくはずがない、と思っていたのだけに、すばらしいとまでは思わないけど、ここまでやれるのかという驚きはあった。これをつくっている人は頭がいいなあという、感じ。
(原作は静岡の話なのに、富士山を挟んで反対側ともいえる山梨の話に替わっているのも、バイロケーションっぽくて、気が利いていると思った。)
下のリンクは原作の感想(それと、今出ている「早稲田文学」に、「バイロケーション」も含む法条遥論が載っています)。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130322
前半、紋切り型のホラーのような展開で、バイロケーションをただの攻撃的な怪物みたいに取り扱っていて、いや、それは全然違うのではないかと思って、映画をつくっている人たちは原作を読めてないのではないかという不信感を持ったのだけど、それが間違いだということを後で気づくことになる。前半は、観客をミスリードに誘うように、あえて紋切り型のホラー展開にしておいて(その方が観客も乗ってきやすいだろうという判断もあるのだろうし、映画として面白くしやすいという判断もあるのだろう)、後半になってから、バイロケーション側の視点というか、バイロケーションもまた「わたし」なのだという側面を強く出してくることで、後者を効果的に印象付けているように思った。そしてそれが、上手くどんでん返しにつながる。
ただ、ちょっと不満なのは、この映画ではバイロケーションに多重人格的なニュアンスを与えようとしているところだ。人は、何か新しいものを見ても、それを自分が既に知っていることの範囲内に位置づけて理解しようとする。その点で、バイロケーションという現象の「理屈」として、多重人格のような説明があることで、それを受け入れやすくすることは出来るのかもしれない。でも、それはバイロケーションという概念の新しさ(面白さ)を覆い隠してしまうことにもなりかねないと思う。
バイロケーションの面白さの根本は、何故かわからないけど、自分がもう一人あらわれてしまうという理不尽なところで、そこに「抑圧された感情によって…」というような説明がついてしまうと、その重要な部分が消えてしまいかねない。そこに何かしらの理由はあるにしても、その理由が人間の感情に還元されてしまってはダメなのではないか。これは微妙なところで、この理屈まで含めて、前半のミスリードを誘う側の操作だと言えなくもないのだけど。
(映画版でバイロケーションの被害にあっているのは、刑事、母親、チャラ男、主人公の四人なのだが、ここで主に刑事のエピソードが、「ホラー的、多重人格的なバイロケーション」というミスリードを誘う部分にかかわり、母親の存在によって、バイロケーションもまた「わたし」なのだという側面が表現される。)
ここで主な問題は、オリジナルとコピーの闘争ではないし、多重人格のように、一つの場(わたし)を複数の「わたし」たちが共有する(あるいは、奪い合う)ということでもない。多重人格とは逆に、二つの場所に、一つの「わたし」が分離してしまうということで、これは(多重人格のような)わたしの内容の問題ではないし、(ドッペルゲンガーのような)わたしの外的イメージの問題でもなく、わたしという「形式」の問題であるように思う。
わたしとは唯一の場所(ここ)という意味であり、それを二つに分割することは定義上不可能であるはずだ。二つの場所を同時に「ここ」とすることは出来ない。いや実は、腕は二本あるのだから、二つの離れた場所を同時に「ここ」と指さすことはできてしまうのだ。しかしその時に「ここ」と言っている「口」は一つだ。まさにバイロケーションは、二本の腕と一つの口の関係の物語だと言えるのかもしれない。
シュレーディンガーの猫は、箱をあけない限り(一定時間の間は)、生きていると同時に死んでもいて、その区別がつかない。バイロケーションにおいても、重要なのは、オリジナルとバイロケーションの相容れなさ(闘争)という点よりも、二つの区別がつかないという点にある(外見が似ているということではなく、内的には、どちらも等しく「本物のわたし」だということ)。生と死とは相容れないが、(箱を開けない限り)区別がつかない。オリジナルとバイロケーションともまた、相容れないが区別もつかない。逆に言えば、区別がつかない限りにおいて、(強引に)共存してしまっているとも言える。その事(相容れないのに、区別がつかない事)が、まさにこの作品の叙述トリックを成立させている。つまりこの作品では、この「トリック」こそが本質であり内容であると言える。
叙述トリックが生きている限り、オリジナルとバイロケーションという二つの「ここ」は、相容れないまま重なり合って共存してしまっている。しかし、謎が解かれ、ネタが割れ(箱が開かれ)てしまえば、共存は破れてしまう。
(とはいえ、原作には、ネタが割れた後でも共存を可能にしたキャラクターが出てくるのだけど、映画ではそっちの方にはほぼ触れていない。)