●23日、24日の日記に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』について書いたところの「地元」という概念の説明がちょっと足りなかったかもしれない。
これは、古くからある因習やしがらみに捉えられている土地での関係の閉塞性ということではなく、逆に、古くからあるものがいったん切断されて、その後に人工的につくられたその土地での関係性が閉塞的になりがちだということを言っているつもりだった。アメリカという場所全体がそもそもそういう場所なのだけど、映画でマイケル・J・フォックスが住んでいるのは、おそらく景気の良かった五十年代くらいに作られた造成地という感じで、父の父が移り住んだであろうと思われる同じ土地に、三代目として住んでいるというくらいの、浅い歴史性のなかにいる。そのくらいの感じが一番きついのではないか、というイメージだった。
映画が描くのは、1985年の現在を挟んで前後30年で、それ以上の過去や未来がリアルには想定できないという感じの、浅い歴史性のなかにある。「3」で百年前までさかのぼると、それはもう歴史ではなくフィクション(マカロニウェスタン)の領域になってしまう。出来立てのピカピカでもなく、古くからの伝統があるわけでもなく、中途半端にくたびれた浅い歴史の感じが醸す閉塞感。そして、そういう場所には、本当に「文化」がなくてつらい。
(ぼくが育ったのもそういう土地で、それまでは田畑しかなかったところに急速に住宅が建ちはじめ、外から人が流入しはじめた頃に、祖父が購入した家で育った。祖母の実家からは割合近い土地ではあるけど、祖父も両親も、土地にルーツをもつわけではない。人口密度が低かった土地に急速に人が流入したため、学校が生徒であふれ、少学校でも中学でも、急造したプレハブ小屋が補助の教室として使われた。教師なども、人数合わせの寄せ集め感がすごかった。
高校は隣町の学校だったのだけど、そこは古くからの漁師町であり、古い別荘地でもあって、昔ながらの風情が色濃く残っていて、雰囲気が全然違っていることに驚いた。古い街には文化がある。自転車で二十五分くらいしか距離は離れていないのだけど。)
この「きつい」感じ、「荒んだ」感じは、日本映画で言うと、柳町光男の『さらば愛しき大地』(82年)とか根岸吉太郎の『遠雷』(81年)に近いのではないかと思う。この荒んだ感じが、バブル景気によって強引に覆い隠されたという感じが、ぼくにはある。ぼくはまさに、それを覆い隠すバブル的な文化に「救われた」感じが強くある。それが肯定すべきものかどうかはわからないけど、とにかくそれに救われはした。23日、24日の日記に書いたのはそういう感じで、自分のことにひきつけ過ぎているのかもしれない。
さらば愛しき大地』の表面にポストモダン的な記号やイメージをベタベタ貼りつけると『バック・トゥ・ザ・フューチャー』になる、というのは、あまりにも極端すぎる言い方だけど。