●お知らせ。『フィクションの音域 現代小説の考察』がBookLiveとReaderStoreでも取り扱われるようになりました。
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●実は、はじめて『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を観たのだけど(『視覚文化「超」講義』を読んだので)、そこには非常に閉塞した世界が写っていた。
それはつまり、中学・高校生くらいの時の人間関係が、(地元でそのまま生活していると)大人になってもずっとつづいている、というような世界のことだ。高校の時の人間関係がずっとつづくからこそ、過去に遡ってその頃の(父とビフとの)関係を変えた後にもとの時代に戻ってくると、現代の力関係もかわっている。スクールカーストが一生続くような、いわゆる地方の郊外のヤンキーワールドのような閉ざされた人間関係の世界。芸術に限らず文化というものの最大の使命は、そのような関係(人生)に耐えられないと感じている人たちを、そこから救い出す(別の世界-関係の可能性を示す)ことにあるんじゃないかと、ぼくは思う。
頭のいい人なら、都市部の大学へでも行って、地元の人間関係とは別の関係をつくることも出来るだろうし(そもそも中学、高校から進学校に行ける人なら既にそこに地元とは別の関係-文化があるだろう)、気の利いた人なら、気の利いた何かを独力ではじめることで、(地元に居ながらでも)地元にもともとあるものとは別のネットワークをつくることも出来るだろう。しかし、そこまで頭がいいわけでも、気が利くわけではない人が、地元の学校を出て地元で就職したりした場合、それこそビフみたいな奴との付き合いのなかで一生を過ごさなくてはならなくなるハメになるかもしれない。それでも特に不満がなければ何もいうことはないけど、そうではない場合、別の関係があり得、別の世界があり得るんだということを、そういう人にも気付いてもらうためにこそ(その想像力の発火のためにこそ)、文化はあると言ってもいいのではないかと思う。
(あるいはビフにしても、彼なりの「文化」への参入があれば、いい大人になってもなお、主人公の父にわざわざちょっかいを出して憂さ晴らしする必要もないのかもしれない。)
主人公にとってはギターが、彼の父にとってはSF小説が、そのようなものに成りうる可能性をもつのだけど、しかし例えば主人公は、自らのバンドのライブさえ学校内で行おうとしているのだし(何故、あんなつまらなそうな審査員に聴かせる前に、街のライブハウスで勝手にどんどん演奏したりしないのか、そもそもそういうものが無い街なのか、あるいは、街のライブハウスで演奏してもけっきょく観客は高校の同級生ばかりになってしまうのか、つまり文化がないのか…)、レコード会社にデモテープを送ることを躊躇してもいて、「文化」はあまり有効に機能してはいない。いや、「文化的なもの」はあるのだろうけど、それがこの映画の世界では、スクールカースト的な価値観に従う一義的な機能しか許されていない(主人公のギターも、ダンスパーティーのような伝統的な制度のなかくらいしか演奏の機会がない)。
きわめて閉塞した『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の世界で、周囲の人間関係から切れて、怪しい研究に一人で没頭しているドクだけが、唯一「文化」の香りを湛えている。ドクは孤立しているのではなく別の何かと繋がっている存在なのだ。もし彼がいなかったら、主人公にとって世界は地獄のようだったかもしれない。実際、物語上でも、主人公が頼ることの出来る存在はドクしかいない。いや、主人公には友人がドクしかいない、と言うべきか。
(『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』も観たのだが、こちらはさらに閉塞感が増していて、未来でさえも、子孫たちが父や自分と同じような関係のなかで暮らしているのだった。過去も現在も未来までもずっと、スクールカーストによる変わらない関係が持続する世界。未来には確かに多様なガジェットはあるのだけど、それらはたんに消費される意匠の変化としてあるものでしかなくて、「文化(新たな関係を可能にする媒介)」として機能しているようには描かれない。ぼくは――PART1ならまだしも――PART2を「楽しいコメディ」として受け取ることがぜんぜん出来なくて、いろいろな意味ですごく荒んだ映画にみえた。「2」の描き出す未来世界の陰惨な暗さは、エンターテイメント系の作品としてはかなり異様なのではないか。まあ、未来世界は話のきっかけに過ぎず、「2」の物語の本筋は、現在時のディストピアと、過去に遡ってそれを変えること――PART1を反復しつつ読み替えてゆくこと――の方にあるのだけど、ぼくには未来世界の「希望の無さ」の方がより強く印象に残った。話のきっかけでしかない未来世界を、何故ここまで暗く描く必要があったのか。)
(「PART3」は、まだ観ていない。)
(だけど考えてみれば、最近の――明らかにオタク映画であるはずの――『パシフィック・リム』とかでさえ、ギーク的価値観ではなくアメフト部至上主義的価値観で物語が構築されていたことを考えると、アメリカではいまでも――シリコンバレーの技術によって世界を席巻するアメリカであるにもかかわらず――大衆文化のレベルではアメフト部的なものを頂点とするスクールカースト的価値体系が支配する世界なのかもしれない。リアルな世界を考えるならば、ドクこそが超エリートで大金持ちの「勝ち組」になるはずなのだけど。)
●このような感想は、既に『視覚文化「超」講義』を読んだことの影響下にあるのだけど、この本は、現代の視覚文化の概要を解説した本というより、「人間にとって文化とは何か(あるいは、文化にとって人間とは何か?)」みたいな根本的な問題を、現代の視覚文化を題材として考えようとしている本であるように思われた。