●お知らせ。勁草書房のウェブサイト、けいそうビブリオフィルに連載している「虚構世界はなぜ必要か?/SFアニメ「超」考察」の第10回「日常としての異世界・中二病 『AURA 魔竜院光牙最後の闘い』と『中二病でも恋がしたい!』(2)」が公開されています。前回からのつづきですが、今回は主に『中二病でも恋がしたい!』について考えています。
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ここで言う「中二病」とは、ファンタジー的な虚構の世界を自分で設定し、見立てによってそれを現実と重ね合わせ、その見立てられた虚構世界で自分に特別な価値を与えて、虚構的人物を演じ、現実の自分よりも、演じられた自分の方をリアルな「自分の居場所」としているような人物を指しています。彼らには、設定は見立てで、それを意識的に「演じている」という認識はあり、幻覚や白昼夢のなかにいるわけではありません。しかし、演じられた虚構の自分のなかにしか自分の居場所を見つけられないのです。
彼らは、受け入れ難い環境を強いられることで、そうせざるを得ないのですが、しかしそれでも、その場所はあまりに孤独で、袋小路のようにみえます。『AURA』では、貧しく、孤独で、袋小路でしかないような、なけなしの虚構(一人遊び)でも、その虚構が人に生きる場所を開き、(今ある関係とは「別の関係性」において)他者へと繋がる媒介になり得るのだという形で、その「孤独な虚構」の必然性が示されていました。
『中二病でも恋がしたい!』では、この「一人ぼっちの閉ざされた虚構(一人遊び)」の可能性が、より多角的に、そして柔軟なかたちで追究されています。『AURA』では、「現実」とは、地方都市の文化的貧しさであり、スクールカースト的な権力=人間関係(公式ルール)のことで、それに対する虚構(独自ルール)は、中二病的虚構しかありません。しかし『中二病でも…』では、「現実」にも異なる複数の層があり、「虚構」(孤独な独自ルール)にも複数の異なる形態があり、虚構ごとに現実性(共有性)の度合いの違いもあることが示されます。
『中二病でも…』では、学校が、比較的自由度の高い遊戯的な場として設定され、他方、家庭は、(『AURA』における教室のような)強い現実としてのシビアな権力関係が支配する場として設定されています。学校という遊戯的な場では、軽やかなコメディとして、より現実的な虚構とより虚構的な虚構とが、かみ合わず、繋がらず、すれ違ったままで、相互に影響を与え合う様が描き出されます。また、家庭という現実的な場では、現実と虚構の間に生じる、対立、抗争、摩擦、受け入れなどの、様々な力関係が比較的シリアスに描かれています。この時、現実という実体的で絶対的な一つの何かがあるのではなく、出自のまったく異なる三つの層が、虚構に対して強い力で作用するために「現実と呼ばざるを得ないもの」として示されるのです。
以上のように、『中二病でも…』で起こっているのは、「現実」と「虚構」、「開かれたもの」と「閉ざされたもの」との間の、単純な対立や調停ではありません。ここにあるのは、異なる虚構の間の現実性の度合いの違いや、現実と呼ばれるものの間にある内実の違い、そしてそれらの、諸虚構、諸現実の間で生じる様々な力の作用や、関係/無関係だと言えます。現実のなかに虚構があり、虚構のなかに現実があり、そしてそれら諸現実、諸虚構は度合いや組成がそれぞれ異なるという様と言えます。それらすべてをひっくるめたもののなかで、登場人物は存在します。