●『作家、学者、哲学者は世界を旅する』(ミシェル・セール)を読んでいて(二章まで読んだ)、「ガリレイナチュラリズムの創始者ではないし、物理学はアニミズムのなかで生まれたのだ」というようなことが書いてあって、おおっ、となった。物理学は、宇宙のコードである数学=魂(ソフトなもの)を、実験操作を通じて具体的で多様な物質(ハードなもの)に出会わせるのだから、アニミズムなのだ、と。これは、目から鱗という感じで驚いた。
(ナチュラリズムとは、一つの自然(物質)と多数の文化(魂)というような、今日の我々が常識としてもっている世界観。物質的に還元すればすべては一様な物でできているが、そこにそれぞれ多様な魂が宿っている、と。対してアニミズムとは、一つの魂と多数の自然(身体)という世界観。人も動物も物も、すべて等しく魂をもつが、それぞれ異なる身体(物質性)をもっているため、一つの魂が様々に違った現れ方をする、というもの。その他に、トーテミズム、アナロジズムという四種類の世界観=存在論の類型があるとするデスコラの研究に基づいて、この本は書かれている。)
《《ナチュラリズム》はガリレイとともに出現したわけでは全くないし、当時流布していた、もしくは形成されつつあった自然科学にまつわるガリレイの仕事から生まれたわけでもない。実際のところ、彼の実験によって生まれたのは、代数学の形式的言語と実験操作を混淆した、数学的な物理学なのだ。(…)どうして、一様で物言わぬ自然と、饒舌で複数的な文化という根本的な分離がそこから生じることがあろうか? 宇宙に充満し、ついにわれわれ人類によって解読された、一つの数学的言語でなければ、そこで語られているのは何だろうか?》
《古くは代数学、現在ではアルゴリズムという、少なくとも二つの方言で語られたこの形式言語に、どのような規定を与えるべきなのだろうか? 実験とその操作によって生まれる、ハードで(dur)、大量で、エントロピー的な規模のエネルギーに比べると、ほとんど無限に小さい情報エネルギーのことを、ソフト(douce)なものと呼ぶことができないだろうか? それは、ソフトがハードをプログラムするように、魂が身体を支配するように、無生物と生物を操っているのではないか……》
ガリレイプラトンの不毛なアニミズムを転倒することによって、そこに方法を発見する。彼はそれぞれの事物の物体(Corps,身体)から出発して、敢えていうなら、それらの衣装を剥ぎとって、その特異性のうちに、この部分の数学、この部分の方程式、この部分の関数といったものを発見するのである。彼の実験は、物体のマントを引き裂き、そうしてできた穴から、その物体が占めている特殊な眺望(Site)から、魂の小さな鏡に映ったものを眺めようとするものだった。その特異な眺望を通じて、そこには世界の巨大な魂の部分的な眺望が映っているのである。》
《数学は、世界の、事物の、身体の魂として働く。情報であるかぎりで、それは魂に、精確で、厳密で、透明で、輝かしくて、観念的で、そう、永遠のものという規定を与える。---私が知るかぎり、これは伝統的な魂の規定である。数学は物体(Corps,身体)-風景の魂について語る。スピノザをもじって言うなら、所産的自然にとっての能産的自然としてコードは働くのだ。》
ガリレイの勝利は、アニミズムに身体(物質)の一貫性とパースペクティブを戻してやったところにある。プラトンもおそらくギリシャ人たちも魂の力を---私が言いたいのは、数学のことなのだが---過大評価したために、それが欠けていたのだ。》
●この本は一方で、非常に強く感覚を喚起するような魅力的な「描写」があり、他方で、読み解くのが困難なほどに、多方向の参照項へと爆発的に拡散してゆく動きがあって、きわめて強力なツンデレ(ツンは、読み手に莫大な教養を要求する多方向への参照、デレは、とても魅力的で強力な感覚の喚起)に翻弄されて途方に暮れるような感じ。幸い、とても丁寧な訳注があるので、そのおかげでなんとか読むことができる。
アニミズムについて書かれた二章で、アニミズムについての定義や説明が示されるよりも前に、次のような「描写」が置かれる。こんな哲学の本があるのか、と。
《夏のヴァカンスのために、私たちのもとを訪れると、彼らはわれわれの世界があまりに甘美なので、エコロジストの楽園に暮らしているのかと思ってしまう。---刈入れが済んで、葡萄の収穫はなされ、果実は熟し、まだ耕作ははじまっていない。いや、私たちが浸っていた、この細かく枝分かれした環境は、腰を痛め、肌を焼き、まめをひどく堅くし、大気の至るところを、うなり声や、雌鶏の鳴き声、悪臭を放つものや匂いが染みついたものが支配し、泥だらけで、垢にまみれ、落ち着かなく、欲望をそそり、陶然とさせ、眠気を誘い……自然で、産まれては滅んでゆく環境だったのだ。私たちは犂の柄や、くびきやとその革紐や、穂や、房や、たてがみや、硬い毛、木の殻や、爪、角……といったものに触れていた。一つ一つは堅いが、錯綜した全体はやはり堅いものの、時には家畜の乳房や桃の果実のように柔らかく、そうしたものが夏の驟雨や匂いのように生じては、ざらざらしたものたちを埋めつくしてしまったものだ。たった一つの海のさまざまな小石たち。そのころの私には、今日のように、大気に満ちた同じ魂のうちで、これらの重く、濃密で、ばらばらな物体が夥しく分布していることを、言い表す言葉がまったくなかった。》