●お知らせ。けいそうビブリオフィルで連載中の「虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察」の第九回「日常としての異世界中二病 『AURA  魔竜院光牙最後の闘い』と『中二病でも恋がしたい!』(1)」が公開されています。
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今回と次回の主題は「中二病」です。中二病と言う語は様々な使われ方をしていますが、ここでは『中二病でも恋がしたい!』というアニメで使用されているような意味での中二病について考えます。つまり、自分が生きている場で現実的に作動している権力、関係、価値観を無視して、自分で勝手に設定したファンタジー世界の権力、関係、価値観のなかを生きている「かのように」振る舞っている人びとのことを意味します。
例えば、『AURA』のヒロインである佐藤良子は、「全権保持者という神のような存在の命を受けて、竜端子という特別な物質を回収するために、異世界からこの現象界へ派遣された、リサーチャーという職能をもつ者だ」という設定をたてて、日常生活においてもそのように振る舞います。本気でそう信じているとすれば彼女はたんに病気なのですが、これは斉藤環の言う「多重見当識」の極端な例であると言えます。
《いわば、「この世界全体」を「別の世界」として見立てて(設定して)、彼女はその「見立てられた世界」のなかに住んでいると考えられます。つまり彼女は、「この世界のなか」にいることを認識しながらも「この世界が現実であること」を拒否しているのです。彼女は意識的に「演じて」いるわけですが、その「演じられた自分」の方こそが真の自分であると感じている。あるいは、「演じられた虚構の自分」のなかにしか、「自分」の居場所はないと感じていると言えます。》
ぼく自身の中学や高校の頃の経験から言えば、文化や芸術というものは、いま・ここで、つまり、このクラス、この学校、この地方で、現実として作動している権力、関係、価値観とはまったく「別の(より魅力的な)」、権力、関係、価値観があるのだということを示してくれるものでした。あるいは不良になって街のチンピラと付き合うということも同様のことかもしれません。しかし、文化的資源の貧しい環境にいたり、それへのアクセスが困難な環境にいて(不良になるような資質でもなく)、しかも、その人が現実的に置かれている環境に上手く馴染めないとしたら、その人のもっている貧しい文化的資源をもとにして、独力で、別の、権力、関係、価値観をたちあげて、その拡張された虚構的異世界の自分の方に、自分という存在のリアルを移行する必要が生じると思われます。中二病的な「日常的に演じられる異世界」をそのようなものと考えました。
しかしこのような異世界が文化や芸術一般と異なるのは、その人が独力でたちあげた世界であるがゆえに、そこにはその人一人の居場所しかないということです。そこにいる限り一人ぼっちで、しかも袋小路でその先はどこにも通じていません。
しかし、そのような、最も貧しい虚構、なけなしの虚構にも、必然性があり、可能性があるのだということを示しているのが、『AURA』であり『中二病でも恋がしたい!』であると考えます。今回は主に『AURA』を取り上げ、そこに描き込まれた、現実的な権力(公式ルール)と中二病的な異世界(独自ルール)との関係と、孤独な「独自ルール」の可能性について考えています。
(この、独りぼっちで袋小路の「独自ルール」の世界こそが、虚構世界の源泉ではないかと思っています。)