⚫︎以下、ちょっとした思いつきで、練られたものではない。
昔のモノマネは、モノマネ=笑いだった。モノマネは、完コピではなく、笑えるような形で特徴を掴むことだ(一番わかりやすい例はコロッケか ? )。それがいつしか、ガチ歌マネみたいなものが主流になった時期があった。ガチ歌マネに対して起こるのは笑いではなく単なる「感心」で、おおっ、とは思うが、べつにそれだけ。
ここで「笑い」の部分が、(妙な言い方になるが)モノマネによって創造されたオリジナルな部分だ。「笑い」の部分は、オリジナル(本人)のリバースエンジニアリングだけからでは生まれない。オリジナル(本人)に対する、カリカチュア、からかい、皮肉、機知、ユーモアがあり、つまりそれが「批評」だ。
(モノマネのモノマネが面白くないのは、モノマネのオリジナルである「笑い=批評」の部分がなく、「批評」部分も真似でしかないからだ。)
そこには、オリジナル(本人)の、分析・リバースエンジニアリングがあるだけでなく、それに対する評価(態度表明)がある。つまり、同化(リバースエンジニアリング、あるいは憑依)と同時に分離(評価、あるいは幽体離脱)がある。
ただしそれらによる「評価」は、権威主義的な上から目線(メタ目線)からなされるものはなく、フラットか、もしくは下から目線から生まれるものだ。モノマネは、オリジナルに対して常に遜っている。モノマネは、オリジナル(本人)がなければ成り立たないという意味で、オリジナル(本人)に依存している。しかし、遜ってはいるが、支配されてはいない。下から目線ではあるが、決してそれに従属はしていないという印(態度表明)が、カリカチュア・からかい・皮肉・機知・ユーモアであり、「笑い」である。批評は、オリジナルに依存するが、従属はしない。
(とはいえ逸脱しすぎてはいけない。あくまでオリジナルから発したもので「似ている」という感覚は前提としてなければならないだろう。)
批評には、権威主義的な後ろ盾がない(というか、あってはならない、と考える)。逆に、オリジナル(本人)の知名度や人気に依存する。つまり「下から目線」である。しかしそれでもなお、そこで、オリジナルに従属しない「笑い(カリカチュア・からかい・皮肉・機知・ユーモア)」を創造できるかどうかに(そこにのみ)、その自律性の成否がかかっている。
(たとえば、村上春樹への批評は、たとえそれが全面的に批判的なものであったとしても、村上春樹という作家の知名度と人気に依存することで成り立っているという事実を忘れてはならない。その時、その批評が村上春樹への従属から脱して自律的であるためには、「笑い」に相当するオリジナルな何かが創造される必要がある。星二つとか、65点とか、ベストテン7位とかいって、上から目線で「判定する」権利など批評にはない。)
(だからこの場合、村上春樹のような、知名度があり、どんなところが評価され、どんなところが批判されているのかということが、ある程度は共有されているような作家の作品でさえ、それらを前提にすることなく一旦忘れて、まったく無名で未知の新人の小説を読むように、未知で無名の新人の作品と同等のものとして、読む必要があると、ぼくは考える。)