2020-09-13

●(『王国(あるいはその家について)』について、もうちょっと。)

この映画には、カットの終わりにカチンコが写っているカットがいくつかある。カチンコにはおそらく、シーン番号、カット番号、テイク数などが書かれている。このことがまず示すのは、この映画は、リハーサルの場面をドキュメンタリーのように追っかけて撮ったものではなく、一つの場面というまとまりをつくり、さらにそれをカット割りして、分けて撮っているということだろう。つまり、現実の流れのままの時間を撮影して、それを後から編集したのではなく、最初から、虚構的に分割された上で組み立てられる時間の構築が意図されている。リハーサルを撮っているのではなく、リハーサルをしているかのように演じられた場面が演出されている。これはわりと重要なことで、それは、ここで行われているのがリハーサルの撮影ではなく、一つ一つの場面としての、虚構のたちあげと構築だということを示しているから。

通常は、カチンコが写っているところを残すということは、撮影された場面に二つの次元があることを示す目的であることが多いだろう。演じられた虚構の次元と、それを撮影している現実の次元がある、と。つまり、虚構の次元に対するメタ的視点として、現実の次元の存在が示される。だが、この映画では、撮影している現実の時間の次元が、メタ的な機能をもっていないというところがユニークなのだと思う。

撮影される対象が、リハーサル室で「演じている人」なのだから、撮影の対象それ自体に、既に、虚構の次元と現実の次元との二層があることは明らかで、だからそれが「撮影されている」現実の時間が明らかにされたとしても、ことさらそれによってメタ的な視点が強調されるわけではない。演じること=虚構の次元、撮影すること=現実の次元ということにはならない。

「演じている人」というのはつまり、現実のなかから虚構の次元をたちあげようとしている人、ということだろう。

おそらくこの映画では、「フィクションのたちあげ」にかんする、四つくらいの層の重なりがある。まず、テキストが書かれることによるフィクションのたちあげの層がある。そして、テキストを演じることによるフィクションのたちあげの層があり、フィクションを演じる人を撮影する(カット割りやフレーミングなど、撮影レベルでの演出も含む)ことによるフィクションのたちあげの層がある。そしてさらに、撮影された映像や音声をモンタージュすることによるフィクションのたちあげの層もある。フィクションのたちあげというのは、現実の次元から虚構の次元がたちあがるということだから、どの層もそれ自体で、現実の次元と虚構の次元の両立(分離)が起こっていると考えられる。

この四つの層には階層性はなく(どこかの層が、別の層へ奉仕するのではなく)、重ねられ、相互作用しながらも、各々がそれ自体として自律してありえる強さをもっている。

どのような映画であっても、この四つの層は潜在的に存在するとも言える。しかし、この映画では、「演じている人を撮影する(ドキュメンタリー的にではなく)」ということによって、それぞれの層で、その都度でのフィクションのたちあがりが強く意識化されるのではないか。この映画では、フィクションと同時に、様々な層でその都度生じている「フィクションがたちあがる様」が捉えられているのではないか。