●都心で豪雨、というニュースを今年はしばしば聞く気がするけど、ぼくの住んでいるところでは今年、豪雨のようなものをまったく経験していない。気候のブロックが都心とは違うのだろう。
●(昨日からのづき)『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』を観た。「2」で描かれる未来が異様に暗かったのは、「3」のラストで示される「未来は自分の力で変えられる」というメッセージを際立たせるためだったのか、と一応は納得できた。「3」は、まさに、主人公がたった今、暗い未来へと進んで行く方の運命のルートから自力で外れた瞬間を示すことで終わる。
それだけでなく、「3」が「1」や「2」に比べて明るく軽やかに感じられるのは、30年前や30年後ならともかく、さすがに100年前となると、同じ土地でも、閉塞した同じ関係が反復されているということにはならなくて、未来や現在に対する「整合性」を守るための物語というより、主人公が別の世界に修行の旅に出る話というニュアンスが強くなるからだろう。そして「3」では、「1」や「2」よりずっと強く、主人公とドクとのパートナー性が強調されている。昨日からの話のつづきとして言うならば、「3」のマカロニウェスタン的世界は、文化の機能しない土地に住む主人公にとって、別の関係を可能にする「文化的な場」として機能していると言える。
このシリーズではギター(ロック)が文化として機能しない。そのかわり、「3」ではジュール・ヴェルヌが、科学と文学の壁、20世紀と19世紀の壁、男性と女性の壁を越えて、新たな関係を媒介するものとして、文化的なものの機能を示す。そしてドクは、19世紀の女教師と恋に落ちる。ドクはまさに、身をもって、別の場所への通路を、別の関係の可能性を、主人公に示す。
(「3」にはもはや、タイムトラベル物のSFとしての意味はほとんどない。現実とは別世界にまぎれこんだファンタジーと言う方が近い。「1」や「2」が、現実的な関係性の話だとすれば、「3」は、その現実的な関係からいったん切れることによって、あり得る別の関係の可能性を探る話で、だからここで主人公は、過去に行くのではなく、フィクションの中へ入ってゆくと言える。「1」で主人公は、穿いている下着のブランドから「カルバン・クライン」と間違って呼ばれるが、「3」では、自ら「クリント・イーストウッド」と、架空の名を名乗る。)