●『My Humanity』(長谷敏司)、最後まで読んだ。四つの短編すべてでナノロボットが重要な技術的前提となっていた。ITPも霧状コンピュータも、ナノロボットの技術的展望が無ければ荒唐無稽な空想でしかないが、ナノ技術によって「あり得るかも」というリアリティを得ている。
そういえば『ポストヒューマン誕生』の記述でも、人間が「死ななくなる」ための最も重要な技術としてナノロボットが書かれていると言っていいと思う(重要だとされるGNR――ゲノム・ナノ・ロボット――のうちの二つにナノロボットは関わる)。しかし同時に、自己増殖するナノロボットは様々な技術のなかで最も危険なものとして書かれてもいた。ナノロボットはあまりに小さいため、コストを下げて大量生産するには自己増殖させるしかなく、その時、無制限に増殖させるのは危険だから何かしらの制約を設ける必要があるのだが、しかし増殖するうちその制限にエラーが出ないという保証はどこにもない。ヒトの細胞にも増殖への制限がかけられているのだが、それがエラーで無制限に増殖するようになってしまったのがガン細胞で、ナノロボットのガン化も当然予想される、と。そしてそれが環境に漏れ出てしまった場合、人間は無限に増殖しつづけるのそれを制御する術をもたない。
『My Humanity』では、ナノロボットの技術が当然のように普及した世界を描いた三作がつづいた後に、最後の「父たちの時間」で、その危険を示す状況を描いている。これは、ナノ技術の重要性をさんざん説いた後、最後の方でその半端ではないヤバい危険性について触れるカーツワイルの本と構成が似ているとも言える。とはいえ、長谷敏司の小説はカーツワイルよりずっと複雑ではあるけど。
「父たちの時間」では、原発廃炉にする際に用いる「放射線の漏出を防ぐ壁」として開発された、放射線を燃料に自己増殖することでそれを吸収するナノロボット(クラウズ)が出てくる。このクラウズが環境中に漏出し、環境中(主に海中)に存在する放射線をエサとして増殖しつつ急速に変化(進化)してゆく様が描かれる。タイトルの意味はラストになって分かり、そこで主人公の科学者は、それまでまったく異質の存在だと思っていた進化するナノロボットたちに、自分たち(人間・生物、というか「男」)との共通点を感じ、つまりそこにある種の「共感」が成立したところで終わる。このオチは正直ちょっとどうかと思わなくもないのだけど、それはともかく、これはとても不思議な捻じれ方をした小説だと思った。
ノロボットの危険性についての話が何故、原発の話として語られるのだろうか(まあ、「ゴジラ」オマージュということかもしれないけど、そう考えると途端につまらなくなる、「ガッチャマンクラウズ」ならぬ「ゴジラクラウズ」?)。下手をすると、ナノロボットの際限のない増殖と進化という恐怖によって「原発の恐怖」を表現したような作品と読まれてしまいかねない。というか、そう読むことも恐らく間違えではない。しかしそれは実は逆で、我々が持っている(持たざるを得なくなった)原発に対する恐怖感を裏地として利用して、それをナノロボットへの恐怖へと転化-転送することで、そこに(新しい)別のリアリティを生み出そうとしていると考える方がいいように思う。事故を起こした原発も、環境に漏出したナノロボットも、制御不能という意味(恐怖)では同じであることが物語的重ね描きでまず示され、しかし後に、その制御不能のあり様が異なることが具体的細部によって示される、と。つまりここでは語られていることの重点が、現在(原発)にあるのではなく、なにかしらの未来(ナノテク)の方にある、という点で、いわゆる「原発批判」の小説ではないということだと思う。
これは3月1日の日記にも書いたことなのだが、この小説集の小説は、主題や物語の形、展開、設定等は、エンターテイメント小説の紋切り型を借りたような、割とありがちな(古臭いと言ってもいい)ものなのだが、ギミックや題材、出来事に対する意味づけの仕方、文章の機能、登場人物が行う思考の組み立て方などといった「内容(組み立てている素材)」が違っている。それは、ただ題材が新しいだけで、物語の機能はまったく古臭いという、よくあるエンタメ系のものとはかなり違う。普通、古い器に新しい内容を入れても、新しかったはずの内容まで古びてしまうものなのだが(しかしそのことによって人は妙に安心するのだけど)、ここでは、古い器に新しい内容が詰められることで、器の意味や機能が変化して、器まで新鮮なものに見えてくるという不思議な感じがある。こういう風な小説もあり得るのだなあと思いながら読んだ。
(とはいえ、「父たちの時間」では器の古さの方がちょっと勝ってしまっている感じもあると思うけど、特に最後の方で。最初の三作では、「人間性」を新たな環境のなかで定義し直す思考実験、みたいな感じで書かれていたと思うけど、「父たちの…」ではその点でちょっと後退している感じもした。)
古い器が新しいもののように見えてくるというのはおそらく、語られていることが(最新としての)現在ではなく(おぼろげにしか見えない)未来の方に重点が置かれているからではないかと思った。未来を舞台にしながらも、結局は現在を語っているのだという小説(物語)が多いけど、そこが違うのではないか。
ダンカン・ワッツの本には、未来は原理的に(一週間後の天気が予測できないように)予測不可能だと書かれていた。それは、未来が予測可能であるかのように語られた言葉は詐欺だと言っているのであって、未来について語るなと言っているのではないと思う。未来は予測不可能だからこそ、未来について語らざるを得ない。未来について語ることは必然的に間違うことであり、間違うことが出来るからこそ、未来について語ることは貴重である(少なくとも「○○は何故××なのか」といった「後付け的な説明」よりはずっと)。先取り的な予測としてでもなく、実現すべき普遍的な理念としてでもない形で、未来が余白だらけの予感だけによって出来ている不確かなものだからこそ可能な(リアルであると同時に絵空事であり、真摯であると同時に胡散臭い)思考実験として、未来を考えることが面白いのではないか。
(「現在」の「解釈」や「批判」とかしてても、どうしてもぼくには面白く思えない。)