●地形というのは空間のネットワーク構造であり、例えば、ぼくが家から駅まで行くとする時、その目的を達し得る可能な経路の集合と、その移動の間に通りぬける複数の出来事(坂を登る、道路や橋を渡る、地下に潜る等々、そして、歩く、バスに乗る、自転車に乗る等々)の集合、そしてそれらの継起的配列(順序)を規定する。それは世界の潜在的な土台のようなものだろう。風景は、その経路の特定の位置に張り付いている。
とはいえ、風景の配置は必ずしも地形(ネットワークの構造とその経路)に縛られるものではない。風景は、地形というネットワークから切り離されて、人の頭のなかでそれとは別の配列をつくりだす(短絡的、非継起的、流動的に)。わたしは、家にいながら外の風景を思い描き、ある風景を見ながら別の風景を想起する。その結びつきや並び順は、地形というネットワークに拘束されない(別のネットワークを頭のなかにつくる)。
地図は、地形というネットワークを目的に応じた断面へと切り取って簡略に図式化したものだ。地図が書けるのは世界の空間的ネットワークに土台としての構造があり、それがある程度安定的であるという確信(信頼)があるからだ。だが、地図には風景は書き込まれないし、風景は地図に張り付いていない。互いに独立している。風景は地図に拘束されないし、地図は風景が変わっても使用し得る(建物が立て替えられても、ビルが更地になっても、田園が住宅地になっても、道路-経路がかわらなければ使える)。
世界の構造としての地形(空間)と、頭のなかの諸風景の関係(空間)は、どちらも空間を形作りながら、その土台の組成を異にしている。それぞれ独自の構造をもちつつも、しかし互いにリンクし合ってもいる(例えば写真は風景をその場所から切り離しながらも、それが「そこ」の風景であることによって、その場所とのリンクは保っている)。
(頭のなかの諸風景のネットワーク構造も地図に書けるかもしれないが、おそらくそれは外のネットワーク構造より流動的であるだろう。)
地形ネットワークと風景ネットワークとは、それぞれ別種の構造をもつ別の空間性を立ち上げ、それぞれ違ったリズムで変化しながら、互いにリンクで結ばれることで相互に作用し合うだろう。
「空間」と言う時、それぞれ独立した両者と、その両者の絡み合いが含まれる。
●二月に撮った写真。その二。