CALM&PUNK Galleryで谷口暁彦「超・いま・ここ」。トークを聞いて、作品を観た。谷口さん自身によってがっつりと書かれた、展覧会の趣旨や作品解説および考察のついたハンドアウトが配布されていて、つまり、過去の作品たちで構成されたこの展覧会において、谷口さんは作家であり、キュレーターであり、批評家でもあることが示されている。だから、谷口さんによる過去作品というデータがあって、それらが、現在の谷口さんによってレンダリングされることで、いま・ここで、3D化されてディスプレイに表示されているのがこの展覧会だ、と、谷口さんの(たとえば「物的証拠」や「透明感」のような)作品とパラレルな構造をもつ展覧会だとみることもできる。
トークでの谷口さんの印象的な言葉に、(モホリ=ナジが光そのものを彫刻とするように)計算そのものを彫刻とすることはできないだろうか、というのがあったが、この展覧会自体がそれに近い感触をもつのではないか。データの読み取りと再配置=自作の再解釈とキュレーション=計算の実行=制作、というような。この展覧会そのものが、過去作品をデータとしたレンダリング=彫刻である、と(実際、いくつかの作品は、現在の技術的水準にあわせて再制作されている)。そして、計算そのものを彫刻とするような展覧会の主要なテーマが、「マテリアルとしてのディスプレイ」であるという逆説が効いている。この逆説=ユーモア。
●とはいえ、谷口さんの作品を見ていると、マテリアルとしてのディスプレイそのものが問題になっているのではないようにぼくには感じられる。ハンドアウトにも書かれているが、ディスプレイそのものの組成が問題であるよりは、予言(現在における過去の突出、あるいは過去の時間を未来へと転送すること)や、計算(保存されたデータを「計算すること」が現在という時制をつくりだしている)の方がずっと強いように感じられる。(1)データがあること、(2)それが計算されること、(3)計算によって現象が生まれること、(4)それとは別の計算(この世界そのものが計算する)によって生じている物理的世界(物理的現象)があること。さらに、(5)計算によって生じている現象と、物理的世界で起こっている現象とを「似ている」「因果関係がある」と認識する「誰か」がいること。
ディスプレイというより、そこから先には入り込めない透明な板=壁があって、(1)から(3)までの世界と(4)の世界とが混じり合わないようにせきとめていることが重要であるように思われた。VRやホロレンズのように、両者が予め混ぜ合わされている場へと没入するのではなく、両者の間には越えられない壁があり、その壁を越えるのは両者の間に「類似」や「因果」を読み込み(アブダクションし)、行為を行う、(5)の「誰か」だということではないだろうか。
(この意味で、トーク時の永田康祐によるパラフィクションへの言及は納得できる。)
●仮に、ディスプレイごとに異なる時間が流れているとしても、その二つのディスプレイを同時に見る第三者によって、二つの異なる時間の同時性がつくられる。扇風機によって起こる風と、iPadに表示されている揺れるティッシュのCGとの間に物理的な因果関係はないとしても、第三者の行うアブダクションがそこに因果関係を生成させる(「思い過ごすものたち」A.)。しかし、第三者によって行われるこのアブダクションは予期されたアブダクションであり、作者によって先取りされている。第三者アブダクションを先取りすることで、作者は無関係な二つのものを併置させ、いわば罠をはっている。
あるいは、物理シミュレーションによる落下する鍵のCGと、灰皿を打つ金属音が同期する作品(「物的証拠」鍵、灰皿)においては、二つの出来事の間にある直感的な結びつきを、空間的配置による種明かしによって分離させる。ここでは、直感的な結びつきが、アブダクションによって批判される。
前者では、アブダクションがイリュージョンへの誘いとして機能し、後者ではイリュージョンへの批判として機能する。しかし実際は複雑で、むしろその逆の機能をもつとも言える。前者によるミエミエの罠は、その仕組みが一目でわかるからこそ観客をにやっと微笑ませ、因果関係のなさを納得させるが、後者にある、タネはばらされているのに感覚的には因果関係があるとしか思えない感じ(認識とリアリティの乖離)は、感覚の混乱やイリュージョンへの誘惑として機能するように思う。
どちらにしても、これらの作品は、アブダクションを行う第三者がいなければ成り立たず、つまり作品の構造が第三者としての観客(人間の知覚や推論の形式)をあらかじめ含んでいる。第三者の「知恵」が作品に織り込まれている。
たとえば、音に反応してスイッチがon/offする電球が、作者の鼻歌によって明滅する様が撮影された映像を映し出すディスプレイがあり、その背後に撮影されたのと同じ電球がおかれる作品(「夜だけど日食」)がある。ここでは、過去の映像と現在の実物が併置されるのだが、過去の映像に記録された音(鼻歌)に反応して、現在の実物が明滅する。既にない過去(にある作者の意志)が現にある現在を支配し、そして虚実の電球の間の同期をも作り出す。これは(谷口さんのいう予言とも深く関わると同時に)記憶や想起というものの機能をもっとも単純にモデル化したものだとも言えると思う。この作品における、音、映像、ディスプレイ、電球の物理的関係=構造は、第三者としての観客がいなくても成立している。
ほかにも、「置き方/オットセイ、本」や「思い過ごすものたち」B.などは、ものたちの関係=構造が自律している(物理的因果関係がある)系の作品と考えられる。これら、メカニズムがループ的に閉じている作品に関しては、観客である第三者は、アブダクションというより隠喩的機能(似ている)によって作品と関わるように思う。映像によって表象されている出来事や対象と、作品が構成している「ものたちの物理的関係性」との間に、類似や詩的なイメージ連接が生まれている。
●そして、インタラクティブな作品は、アブダクションをもつ存在が(アブダクションによって関係や同時性を生成するだけでなく)物理的に介入してくることを前提にした作品と言える。「junp from」は、現在、そのゲームをする観客の行為と、過去に既にゲームを行った作者のデータが二重化されている。作者はあらかじめあらゆる場所でキャラクターをジャンプさせており、ゲームをプレイしつつある観客がキャラクターをジャンプさせる度に、過去のそのゲームをやっていた時の作者の映像が挿入される。現在の観客の行為を過去の作者が乗っ取る。「思い過ごすものたち」Aなどにおいて、観客のアブダクションが先取りされているように、観客の行為が先取りされている。
ここで面白いのは(ハンドアウトに書かれていたのだが)、この作品をプレイする人の多くが、ゲーム画面が過去の作者の映像に切り替わると後ろを振り向く(カメラを探す)という事実だ。つまり、観客はそこに映っている人を後方のカメラによって撮られた自分と勘違いする。そこに自分がいると感じる(そのようなアブダクションが発生する)。だとすれば、ここで観客は、行為だけでなくその存在すらも作者に先取りされていることになる。その意味で、この作品は明らかに『私のようなもの/見ることについて』の前身であるように思う。
●「スキンケア」では、(1)データ、(2)計算するという行為、(3)データと計算によって生じる現象=現在、(4)それとは別の物理的世界(物理的現象)の存在、(5)両者を媒介する「誰か(第三者)」という、すべての要素の関係が示されている。あるいは、それらが分離された上で、物理空間上に配置されている。それは、この作品には越えられない透明な板=壁が存在していないことを意味する。
プリントアウトされたテクスチャデータがあり、それをカメラが撮影し、今、撮影されているテクスチャデータがリアルタイムでハッシュデータと突き合わされて(計算されて)、プロジェクターにより壁に3D画像が投影される。通常、コンピュータを内蔵するディスプレイ内部で行われていることを、分離して物理空間上に配置することで、データ→計算→現象化のプロセスの間に物理空間が入り込む。なので、物理空間に存在する観客がカメラに映り込むことで、計算空間に起こる現象に介入してしまう。観客が、テクスチャデータの一部となり、それが計算空間の現在を変更させる。
これは、これ以外の作品と逆を向いているように思われる。これ以外の作品では、観客のアブダクションや隠喩的機能、行為や存在が、作者による先取りや、計算空間とその配置によってハッキングされるのだが、この作品では、観客の物理的身体が、計算空間の方を歪ませることになる。
●ここまで書いてきても、「夜の12時をすぎてから…」をどう位置付けたらよいのか、よく分からない。