●「aならばb」が言えるとしても、それによって「bならばa」と言えるかどうかは分からない。火事であれば煙が出るとは言えても、煙があるから火事があるとまでは言えない。たき火をしているのかもしれないし、煙突があるのかもしれない。しかし、煙をみることで、そこが火事であるだろうと仮の判断をすることはできる。この判断は間違っているかもしれないが、火事である蓋然性は低くない。仮に火事であると判断して行動し、それが間違っていれば修正すればよい。
このような推論の過程をアブダクションという(帰納法よりもより弱い蓋然性をもつ)。C.S.パースの記号学の概念で言えば、アブダクションはインデックス的な推論と言える。昨日の日記で、谷口暁彦さんの作品について、観客のアブダクションを先取りして罠をはっている、ということを書いた。それで思ったのだけど、相手のアブダクションを先取りした罠、というのは、実はフィクションの起源のようなものなのではないか。起源といっても、歴史的起源というより、フィクションの成立する原基というか、フィクションのプロトタイプのようなものなのではないか。
演繹法や帰納法といった論理形式を使うのはおそらく人間だけだが、アブダクションは動物も使う。というか、動物における判断の形式は基本的にアブダクションなのではないか。動物もまた、捕食対象のアブダクションの形式を織り込んで先回りした罠を---生得的にであっても---もつとすれば、動物も幾分かは---生得的な---フィクションをもつと言えないだろうか。
しかし、罠は、かける側もかかる側も命がかかっており、つまり真剣なものであり、そのような意味で現実的だ(それは、動物のレベルでも既に現実がフィクションを含んで存在するということでもある)。だから、フィクションがフィクションとなるためには、そこに遊戯性が付け加えられる必要があるだろう。フィクションが罠であれば、そこにはかける側とかかる側の闘争があることになるが、その闘争は遊戯的なものになる。
(この闘争は、どちらのアブダクションが優位に立つかの闘いであり、いわばパースペクティブの奪い合いで、この遊戯的闘争によって他者の---別の---パースペクティブへと開かれる、とか。)