●『中二病でも恋がしたい!』を観ていると、H・G・ウェルズの「白壁の緑の扉」という短編小説を連想しないではいられない(バベルの図書館に入っている)。不可視境界線とはまさに「白壁の緑の扉」のことではないか。
●われわれが「向こう側」と「こちら側」とをどのように配分(合成)して生きているのか、という主題は、おそらく現生人類の発生と同じくらい古いものだと思う。『中二病でも…』は、その表現の(非常に新しい)バージョンであり、その配分の新たな書き換え可能性についての実験であるように思われる。これは、フィクションというものの持つ根底的な意味とつながる。とりあえず「現実」として構成されている「こちら側」の論理に、われわれはどの程度まで譲歩すべきなのか、あるいは、「あちら側」の領域への傾倒はどの程度までなら許されるのか。そして、それらが配分(構成)されたものはどの程度、他人と共有可能なのか。「こちら側」と「あちら側」とは本当はどこまで混じり合っているのか。キャラクターの一人一人が、このような問い‐実験‐実践を、それぞれ別のやり方で生きている。それぞれが、「あちら側」と「こちら側」とを異なる仕方で配分しており、そのそれぞれが、「あちら側」と「こちら側」の混じり合った学校という「一つの世界」のなかに投げ込まれている。
●『中二病でも…』のキャラクターたちは、現役中二病(デコモリ)、継続中二病(タカナシ)、親中二病的脱(元)中二病(トガシ)、反中二病的脱(元)中二病(ニブタニ)、そして完全な自律マイペース系(ツユリ)、と、それぞれが「こちら側」と「あちら側」との配分を微妙に異にしている(ここでまったく別の文脈をもつ「ツユリ」の存在がすごく効いていると思う)。それぞれが異なる形で問い‐実験‐実践の形を試みている。現役中二病であるデコモリが中学生で、タカナシ、トガシ、ニブタニが高校一年生、自律系のツユリが二年生という風にキャラに年齢差がつけられていることによって、そこに時間変化の要素も組み込まれる。彼、彼女らの試みは決して孤立したものではなく、互いに相互作用することで、それぞれの立場にブレや幅が生じ、その配分(構成)を変化させる可能性が含まれている。
例えば、ニブタニはデコモリによって反中二病的脱中二病の立場を危うくされるのだが、そもそもデコモリがそうするのは過去(一年前)のニブタニに誘引されてのことだ。現在のニブタニとデコモリが対立するのは、デコモリが過去のニブタニ(モリサマー)を尊敬しているからである。
●この作品で「中二病」とは、たまたま自分がかぶれたものの世界を絶対視してそこにどっぷり浸かり切り、それ以外見えなくなり、それが他人からどう見えるか頓着出来ないような状態だとされる。それが「中二病」という言葉の定義にどれほど正確なのかは知らないし、ここではあまり関係ない。ただ、この作品で中二病と言われるキャラクターたちは、大ざっぱに二つの傾向をもつように思われる。一つは、オカルトやファンタジーやSFなどによって造形されるような「向こう側」の世界への強い親和性をもつ。もう一つは、そのような架空の世界設定のなかで、自分自身に特別な存在であるような位置を与えている。だがキャラクターたちは、本当にそのような「設定」を信じているわけではない。彼らはちゃんと中学を卒業し、高校に入学できる程度に「こちら側」の論理を受け入れ、それに適応している。その「設定」が遊戯であることは受け入れられている。しかし、そのような遊戯こそが彼らに、自分自身の存在のリアリティを与えているものであることは否定できない。そのような意味では「設定」の方こそがリアルであるとも言える。
主に(学校生活という「現実」の場を支配する)社交関係によって構成される「こちら側」のリアルと、主に自分自身の存在感の源泉として作用する「あちら側」のリアルとの(闘争ではなく)「配分(調整)」こそが、この作品では問題となっていることだと思う。この作品は、そのようなリアルの複雑な混じり合いの世界を、複雑な記号-イメージ操作によって、表象として目に見えるようにする。だとするならば、これは「中二病」というより、普通に「おたく」と呼ばれるあり様(例えばコスプレイヤーとかに近い?)の内的リアリティが描かれていると言ってもよいように思う。あるいは、「こちら側」への強い傾倒を示す「リア充」成分と、「あちら側」への深い傾倒を示す「おたく」成分との配合のさじ加減と駆け引きの問題が主題化されている、と。
●アニメにはおおざっぱに、異世界を描くファンタジーがあり、日常と異世界との往還を(あるいは異世界による日常の異化を)描くSFがあり、日常生活から波風や軋轢を排除した世界にキャラクターを置く、ゆるいなごみ系の作品がある、とする。『中二病でも…』は、それらのどの位置とも違うところに立っているようにみえる。これは現実のなかに挿入された物語であるというより、われわれにとって現実が「どのように構成されているか」についての非常に「リアル」な形象化だと言えるのではないか。
●ニュートン力学から相対性理論に至るまでの理論では、「現在の状況の全て」を理解出来きるとすれば、宇宙の未来を完全に予測できる、というラプラスの決定論へと通じる考えが前提とされる。これは、物理法則が永久に固定されているという考え方でもある。しかし最近では、物理法則そのものが進化するのではないかという考えも出てきているらしい。その場合、決定論は破れ未来はオープンになるのだが、しかし、物理法則が全宇宙を支配する法則だとすれば、その進化を「外から観察可能な者」はどこにもいないことにもなる。『シュタインズゲート』で喩えれば、ダイバージェンスメーターの数値がどの程度変化したのかを測ることが出来る者は何処にもいない、というのと同じだろう…。とか、こういうことを考えて頭をくらくらさせているぼくは、十分に「中二病」であろう。おそらくその時ぼくは、宇宙とか物理法則とかいう話に触れることで、自分自身の(あるいは「自分」に限らない)「存在」の怪異のような感触に触れようとしているのだと思われる。その時ぼくは、他人に対する社交性の回路から外れている。
また、深淵な哲学的思索に没頭し、あるいは社会正義や革命思想にかぶれ、あるいは芸術的な美へと傾倒することもまた、等しく「中二病」と言えるだろう。他者たちのまなざしの絡み合いの内部に住まう限り、重要なのはそのなかでの上手い位置取りであり、あるいはせいぜいその調整であって、「革命」など必要はないから。だからきっと、ニーチェもマルクスもセザンヌも「邪王真眼」と紙一重なのだ。それは逆に言えば、われわれは自分自身の存在の無根拠さに突き当たる時(あるいは「死の恐怖」に直面してしまう時)、必然的に中二病であるしかなく(「存在への問い」は必然的に中二病的であろう)、また、中二病がなければ科学の進歩も社会の改革もないということでもある。つまり「こちら側」を変えるためには「あちら側」の成分が必須なのだ。さらに言えば、だからこそ、科学も社会改革も、常に「中二病」的な痛さや寒さや視野の狭さ、自己中心性と切り離すことが出来ない(すぐにそっちの方へ落とし込まれてしまう)ということでもあると思う。
●とはいえ、われわれは「向こう側」への傾倒だけでは生きられず、社会的、社交的な関係への配慮がどうしたって必要となる。そしてそのような「こちら側」へと最も強く誘引するものが他人からの目であり、思春期においては特に異性からの目であろう。いかに「向こう側」へと傾倒しているとしても、一人でいるのはさみしい。おそらく、友達がいれば楽しい。この、ミもフタもない事実の力はとても強力だ。それに、人間においては「他人のまなざし」は半ば自分の一部でもあり、わたしの内部に内面化されてもいる。内面化された「他人のまなざし」は、わたしにおいて「恥ずかしい」という感情を発生させる。それによってわれわれは社会的であることが可能となり(あるいは強制され)、他人たちと共有した地平としての「現実」の構成へと向かうことができる、とも言える。存在への問い(あるいは「わたし発生の場のリアリティ」)へと傾倒する中二病成分と、他者たちのまなざしのネットワーク(絡み合い)がつくりだす社会的、社交的なあり様へと傾倒するリア充成分は、混じり合って「現実」を構成する。当然だが、その混じり合いは「虚構と現実」などといった荒っぽい二元論で整理することは出来ない。
●この時、中二病にともなう「恥ずかしさ」がどのように作用するのかという点は重要であろう。「恥ずかしい」という感情の作用は複雑であり、時に共同性への同調への強い誘引として働き、時に、現状からの離脱‐反省への誘引として働き、そして「恥ずかしさ」は、誰に(何に)対して恥ずかしいのかということがしばしば不明瞭なままたちあがり、しかも、その「恥ずかしい何か」が、自分であっても他人であっても、同じように作用したりもする。
「恥ずかしい」という感情をもつ「トガシ」と「ニブタニ」における「恥ずかしさ」の作用の仕方や、「恥ずかしい」という感情を持たない「デコモリ」「タカナシ」「ツユリ」における、それが作動しないことの理由や意味のそれぞれ違いは、とても重要であるはずだ。
●いや、ちょっとこれでは暑苦しすぎる。この作品で行われている複雑な記号の操作を、もっとスマートに取り出せないものだろうか、と思う。