●『機動戦士ガンダムUC』1から6を観た。16日にお会いした時に西川さんから勧められた。西川さんが勧めたのは福井晴敏の小説版の方だと思うのだけど、いきなり小説を10巻分も読むのはちょっとしんどかったのでアニメの方をまず観てみようと思った。アニメ版で「6」までで、話の展開としては小説版の8巻までに相当するらしい。小説版は完結しているようだけど、アニメ版の完結編になるはずの「7」はまだつくられていない。
西川さんはドストエフスキー好きでワーグナー好きで、つまり長編好きだと思われ、福井晴敏も長編作家なのだが、しかしぼくは体力がないというか堪え性がないというか、あまり長い小説(長い物語)は得意ではないのだけど(アニメという形式だと長い物語でも大丈夫なのだけど)、確かに、話が長くつづくことによってしか表現できない(追い詰めてゆけない)ことがあるのだということが、この「ガンダムUC」を観ていると思い知らされる。
設定は凡庸とも言える。人類の未来を(良くも悪くも)大きく変える力をもつ、しかしそれが具体的に何なのかは誰にも分からない「ラプラスの箱」という謎の力があって、その開放をめぐる、様々な陣営の利害が絡んだ争いの話。「ラプラスの箱」とはあからさまにマクガフィンであり、まさに「ニーベルングの指輪」でもある。要するにベタな物語の基本形。キャラクターの造形も、設定も、そこで語られるエピソードの数々も、それだけを個々に取り出してみれは、どれもどこかで聞いたような、既視感のあるものばかりだとも言える(お姫様が空から降ってくる――しかも2度も繰り返される――とか)。ただ、この物語で面白いのはその複雑な組み合わせ方であり、発展のさせ方であろう。
正直、途中でちょっと退屈しかけるのだけど、物語が進んで、終盤になって話がややこしくなればなるほど面白くなってくる(「長編作家」の書く物語は、面白くなってくるまでの「段取りを踏む段階」でずいぶん我慢しなくちゃいけないところがぼくはちょっと苦手なのだが)。こんなところまで行ってしまうのか、と思うところまで行く。そもそもこれは「ガンダム」であり、過去に既に多くのキャラクターや物語が積み重ねられている(ぼくはオリジナルシリーズしか知らないけど)。そのこともこの作品の利点として働いていると思う。
ガンダム」である限り、基本として地球連邦とジオン軍の対立という構図があるのだが、「UC」ではそこに、謎の財団や民間企業が絡んでいたり、ジオン側も地球側も一枚岩ではなかったりすることが示され、状況が複雑化している。とはいえ、もともと「ガンダム」とはそういう話だったし、「謎の力」とそれに対する様々な思惑の違いという構図は、例えば「ナデシコ」にもある(というか、そのような状況の描出では「ナデシコ」の方がずっとすぐれているように思う)。敵対する側にも正当性があることに主人公が悩むというのも別に珍しくはない。だが「UC」では主人公(+ガンダム)がマクガフィンであるため、主人公自身が様々な立場のさなかへと投げ込まれ、直接接触し、通過する。主人公と共に、観客もまた、たんに様々な立場を相対化するというのではなく、物語を通じて、様々な立場のどれもが「自分の立場」であるかのような経験をする。これはとても重要なことではあるが、しかしこれもまたこの物語では「段取り」の段階であろう。
すべての人の立場にそれなりの正統性があり、それぞれの人に、そのような立場をとることの必然性がある。「UC」に出てくる人物のほとんどが立派な人物であり、他人の立場(「立場」の相対性)を理解した上で、自分に出来得る行為を、自分自身の責任において全うしようとする。彼らは十分に柔軟で利発で鷹揚であり、自らが掲げる「崇高な理念」が実現されることこそ世界を良くすることだという単純で硬直した一方的な考えをもってはいない(一見そう見えるものであってもそんなに単純ではない)。しかし同時に、すべての人が、ある関係のなかの固有の位置を占めてしまっているという事実は動かせない。「あちら側」の立場を理解することが出来るということによって、自分が「こちら側」に存在してしまっているという事実を相対化することはできない。そして、自分が「あの正しさ」ではなく「この正しさ」の中にいることを正当化するものは原理的にない(わたしは「たまたま」、ある特定の正しさの系列にいる)。「ある人を殺す」ことを拒否することが結果として「別の人を殺す」ことと同義となり、どちらかを選択せざるを得ない状況で、それぞれどちら側にも理があるとすれば、「正しさ」はその選択の役には立たなくなる(関係の絶対性!)。その行為がこちら側に立つものであればあちら側に、あちら側にたつものであるばこちら側に「呪い」を残すことになる。そしてどの陣営、どの個人にも、それぞれ異なる呪いの絡み合いがあり、固有の呪いという文脈に囚われている。その呪いから自由なものもどこにもいない。
(多くの戦闘ロボットアニメが「このこと」を問わないようにするために設定や物語を工夫するのだけど、この作品は「このこと」こそを問おうとしている。)
誰も戦争を望まないし、人を殺すことを望まない。すべての人が状況を少しでもマシなものに変えたいと思って行動する。その「少しでもマシ」という判断が、どうしたって自らの陣営や自分自身の利益が多い方へとバイアスがかかるとしても(それぞれが「どこか」に位置する限定された視点でしかないのだからそれは仕方ない)、自分だけ良ければいいなどとは誰も考えていない。利己的な利害ゲームを楽しんでいるわけではない。すべての人物が主体であると同時にゲームのコマであり、状況の網の目のなかでそれに縛られたコマでしかない自分を自覚し、コマとしてどう動くことが最良であるのかを、主体的に選択しようとする。しかしその選択の基準として「正しさ」は使えない。それぞれの立場のどれもに、それぞれ固有の「そうである」ことの正しさや必然性(「それ以外にどうしようもない」性)があるのだから。では、どうすればいいのか、そもそもわたしは何がしたいのか、そして実際には何をしてしまっているのか。このような問いが、解かれることのない難問として、登場人物たちによって何度も問われ、繰り返し回帰する。
自分が属する陣営にとっての正しい行動と、自分自身にとって正しいと思われる行動が食い違うという話はありふれている。そのような時、敵対する陣営にいる個との敵味方を超えた心の交流もあり得ることなる。だが「UC」が示しているのは、個と集団(心とシステム)との相克というようなありふれた主題の物語ではないだろう。
むしろ、複雑に入り組んだ状況(因果の網の目)が「陣営」という概念さえ解体してしまうというところまでゆく。複雑な状況、相対化される正しさは、陣営(フレーム)を瓦解させて、個をバラバラにする。しかしその個は、個人主義的な自由で自律した個の真逆にあるようなもの、状況の網目に縛られた、状況(因果)によって共闘可能性さえ解体させられ、孤立を強いられた(何をどうしたらよいのか分からない)個であると言える。つまり、敵味方もなく流動性が高まったことで、融和性や融通性が高くなるどころか、対立や断絶や固有性こそが複雑化してこじれてゆく。そしてそのこじれて孤立したすべての個が、固有の文脈においてそれぞれ「正しい」、あるいは「必然」である(例えば、リディやミコットの感情を非難出来るものなどいるのか?)。
地球連邦側とジオン側との敵対というおおざっぱな枠組みがあって、その枠組みのなかでも、例えばジオン側では、ザビ家、袖付き、フル・フロンタルたちとでは非妙に違っていて一枚岩ではない、ということではない。ザビ家、ガラン・シェール、フル・フロンタル、ピスト財団、ルオ商会、ネェル・アーマガ、ラー・カイラムなどの少グループ群が大きな枠組みによる統制から外れて、状況に応じてその都度絡み合い、それぞれのグループ内でも個と個の離合集散(個別的な関係と離反)が行われる。物語が終盤にはそのようなところまで行ってしまうという、そのことがすごい。
そのような入り組んだ状況のなかに、主人公のバナージ・リンクスが新たに登録され、参入させられる。彼は若者、新参者であるが、はじめからキーとなる重要人物として状況に投げ込まれる。登場人物たちのなかでも、バナージ・リンクスこそが最も、特定の立場(フレーム)から切り離されていると同時に、もっとも強く状況に縛られている(何しろ彼自身がマクガフィンなのだから)。彼はいわば、縛られた流動性のなかにいる。彼は状況のキーであることによって、特定の位置からの自由度が高く(どの陣営、どの位置にも移動可能)、しかし状況による拘束度も高い(状況そのものから降りることは決してできない)。
ここでは個は、状況と相克するものですらなく、たんに状況の効果でしかないとも言える。しかし、そのような状況ではじめて可能になる、状況には属さない(状況に由来するものではない)、個と個の交流もあり得る(例えば、ジンネマンがマリーダの離別を赦す場面)。それはそれ自体うつくしいが、状況に対して無力はであり、状況をよい方向に動かすわけではない。そして状況が動けば消えるかもしれない。
このような状況のなかでさえ、登場人物たち誰ひとりとして行動することをあきらめない(ニヒリスティックにならないし、利己的にもならない)。何もしないという選択が出来ない状況にある、とも言える。何を求めているのか分からないままで、しかしそれぞれが何かを求め、何かしらの正しさを信じ、希望し、何か事を起こし、それによって人を殺したり自分が死んだする。「だから戦争が無くならないのだ」とも言えるし、「そこにこそ希望があるのだ」とも言える(「可能性は争いを引き起こす毒にもなる」、とフル・フロンタル≒シャアは言う)。この物語がどのように完結するのかは、まだ知らない。