●多くの場合、世界の風通しをよくするのはツッコミではなくボケであり、正しいことを言う人ではなく不用意なことを言う人だ、と思う。勿論、ツッコミを入れる人もいなくては困るというのもその通りなのだけど。
誰かが不用意なこと(ボケ)を言ってくれるから、そこにツッコミを入れることができる。そのツッコミが上手なものであれば、そこになにかしら対話の回路が開ける可能性がある。よいツッコミは、相手方の発展的な反応を誘発するもので、相手の身をかたくさせたり、相手を追い込んだり、コケにしたりするものではないと思う。
正しいことの正しさにとらわれていると、そのとらわれが空気を重くし、動きや連携を鈍くすること、そしてその空気を変え、風を通してくれるのが「不用意なことを言う人」であることに気づけないのかもしれないと思う。
●だが、まったく逆の立場で考えてみることもできる。あるシステムや集団のなかで、流れや空気に逆らうようなツッコミを入れると波風が立ってしまう。つまり、突っ込む人のリスクが高くなってしまう。突っ込むことのリスクを突っ込む「個」に負わせてしまっている、とも言い換えられる。そのために、「個」としてはツッコミを回避して、空気に従うことが功利的に正しいことになる。
しかしそれでは、システムや集団としては、様々な点でチェックが働かなくなり、柔軟性も失ってしまう。それは結果として、システムや集団にとって致命的なマイナスになる。つまり、功利的に正しくない。だからシステムや集団は、その空気や流れに逆らってツッコミを入れる「個」にリスクを負わせないようにすることが、自分自身の存続や成長のためは必要であるはず。
しかしそれを実現するのは困難であり、その場合、「個」としてのリスク回避を優先せざるを得ず、結果として「空気」が重要視される。
●前者では、攻撃的、敵対的なツッコミ(あるいは「正しさ」の過剰適用)が、後者ではリスクを避けるためのツッコミの回避(あるいは「正しさ」の欠如)が問題となっている。だがこれはどちらも、我々は(「個」としても「システムや集団」としても)「敵対的ではないツッコミの技法」を十分に知らないということが問題なのではないか。
あるいは、前者にしても後者にしても「不用意な人」こそがグレイトだと言えるのではないか。不用意にボケてしまう人、不用意に突っ込んでしまう人こそを、最大限に尊重しなければならないのではないか。それは天使のような媒介者で、そういう人が出てきた時こそチャンスであり、間違っても血祭りに上げたりしてはいけないのだ。
(正しいか正しくないかなどが問題なんじゃあない、ここで、オレ様の存在、オレ様の権力を示すことこそが重要なのだ、オレ様の目の黒いうちには若造に好き勝手などさせねえ、よそ者などに土足で踏み込ませたりはしねえ、子分どもに冷や飯は食わせねえ、そういうことを見せつけねばならんのだ、というような、動物的な力の誇示としての政治、みたいな作用が実は一番強いのではないかという気もしてくるのだが……。)