●「自分の頭で考える」ことの危険性、ということを考えざるをえなくなっている。独自の鋭い嗅覚をもって、自分の頭で考えることの出来る知性を持つ人が、陰謀論に墜ちていく例を見るにつれて。
反権威主義的な傾向(あるいは、逆張りを好むような傾向)というのはぼくにもあるわけだが、それが強く出過ぎるのは危険だと思うことが(残念ながら)多くなってしまった。大手メディアは確かに信用出来ないが、口コミやSNSは、それよりさらにずっと信用出来ない。専門家は信用出来ないが、非専門家は、それよりさらにずっと信用出来ない。勿論、口コミやSNSのなかにも正しい情報はあるだろうし、非専門家の声にも聞くべきところはあるだろう。しかし、そこに纏わりつくノイズがあまりにも大きすぎて、「独自の嗅覚」で分け入ることのリスクが高すぎる。だから(とてもとても残念なのだが)、ある程度保守的に、ある程度権威主義的に振る舞う方が、相対的に危険が少ないと判断せざるをえなくなる。
(勿論この時、権威が「どの程度しか信用出来ないか」ということを常に意識しておく必要があるとは思う。)
たとえば、現代小説をそれなりに熱心に読んでいる人であれば、芥川賞というのがいかにアテにならないのか知っているだろう。しかしそれはあくまで一定以上に詳しさをもつ人の判断であって、現代小説をまったく知らない人なら、まずは芥川賞受賞作から入るのも悪くはないのではないか、ということを、ぼくは絶対に言いたくない。直観的に、直に、いろいろあたってみるべきだと思う。あるいは、アカデミー賞にノミネートされた途端に、みんなが一斉に『ドライブ・マイ・カー』について話題にし出す、というような権威大好き的な風潮には、どうしても嫌悪を感じてしまう。
しかしそれは、小説を読むことや映画を観ることがさしあたり人の生き死にに直接結びつくことはなく、社会的常識と大きく食い違う(尖っていたり、極端だったりする)価値判断を持っていたとしても、それで自分や他人がとても困ったことになることがないからだ(人から嫌われたりはするかも知れないが)。
しかし、疫病や戦争については、そういうわけにはいかない。尖っていたり、極端だったりする意見をもつことが、そのまま直に、人を傷付けたり、殺したりすることに繋がる場合がある。さらに、疫病や戦争について判断する時に参照すべき情報はあまりに膨大であり、「わたしの経験」や「わたしの頭」の範疇で収集したり処理したり出来るレベルのものではない。「自分の頭」ではまったく追いつけない。高度な専門知識をもつ、とても大きくて組織化された集団によってしか情報の収集・処理(判断)ができない。
(ロシアの侵攻に関してアメリカの出してくる情報はきわめて正確に事の展開を予想している。この点に対して「わたしの意見」を差し挟む隙はない。)
おそらくここには、「個(個としての叡智)」というものの「高度に組織化された集団(における情報収集と解析能力)」に対する敗北ということが表現されている。例えば、偉大な哲学者の判断も凡庸な「統計」に負ける。このような状況においてでもなお、「集団」に対する「個」の優位(尊厳)を無理矢理にでも主張しようとすると、その主張は陰謀論の色彩を帯びるのではないか(「集団」が信じることは嘘---零落した知---であり、「わたしの知」こそが真実を探り当てる)。
(ぼくは、「個の尊厳」を主張すべきところはそこではないと思う。仮に、我々の行動のすべてが、広範囲できめ細かい情報収集とその解析によって予測可能であったとしても、それでもそこに回収されないクオリアのような「個の領域」は残らざるを得ないと思うし、そこにこそ「大きな問題」があると思う。)
(追記。権威をもつ専門家集団の判断がかならず正しいということではない。それも実は間違いだらけであろう。まったく信用ならないものですらあるのかもしれない。ただ、「わたしの判断」あるいは「誰かの判断」が、専門家集団の判断よりも「より良いものである」と判断するための根拠---充分な情報を収集した上で総合的に判断する能力---が「わたし」の側にはない、ということだ。そこに歴然とした能力の非対称があることを認めざるを得ない。)